人気ブログランキング | 話題のタグを見る

汝の隣人を愛せよ 2

さて、「自分を愛するように、汝の隣人を愛せよ」 の続きです。

まずは前半部分、何より、自分を愛すること という前提のもとに、
その一つの方法として、自分のコンプレックスを素直に認めて、好きになって、
もっともっと自分のことが好きになれたらいいですね。
ということを、アンの態度に絡めてみてゆきました。


そこで後半部分、隣人であるリンド夫人に 登場願いましょう。
リンド夫人は文字通りの隣人、同じ村の人で、しかもマリラの親しい友人でもあります。

世の中には本当にいろんな人がいます。
ちょっと苦手・・・くらいならまだしも、全然理解できない!あり得ない!信じられない!
と、しか思えない人に出会ったりもして、アンほどの勇気はないけれども、
心の中では同じように地団太踏んで 怒鳴りつけたいような体験をすることも、あるかもしれません。
わたしはありますよ(笑)。

そんな時に、相手のせいにして、
こんなことになったのは相手のせい、こんな風に振舞うのが普通じゃないの?
わたしのほうが正しくて、向こうが間違っている!こうしてもらいたい!
と、
相手を自分仕様に変えようと思うと、
相手にとっても自分にとっても、かなりの負担がかかりますね。
相手を変えようと ストレスフルな努力をするよりも、自分が変わった方が、ずっと話ははやいのです。
だって
この関係性を変えたいと感じているのは自分なのですから、
自分のほうから まず行動してみないとね。

では、どうやって自分を変えるの?

我慢する? いいえ、まさか。
相手にいちいち、ああしろこうしろと指摘する? いいえ。
まあ、そういう必要がある場合には、言うべきこともあるでしょうけれど、
わたしたちができるのは、本当は
相手のあるがままを受け入れることなのです。

あるがままの自分を愛しているから、
同じように あるがままの隣人を愛しなさい。

「愛しなさい」と言われると、好きでもない相手を 無理に好きにならなければいけないようですが、
この言葉の真意は、
相手を好きになりなさい 好きななれるように努力しなさい
ということではないのです。

嫌いなままで、苦手なままで、
あるいはいっそ、憎んだままでもいいのです。
そういう相手に対して、そういう感情を持ったままでもいいから、
好きな相手に対するように接しなさい
ということです。

相手を好きでなくても、
理解しようとすること、理解できなくても受け入れること、
尊重すること、許すこと、思いやりを持つことは、
自分でできる、自分を変える努力ではないでしょうか。
そしてそれは、キリスト者であろうと なになに教であろうと、特別な信仰がなくても、
人と関わってゆくときには必要な努力ではないでしょうか?


少し大人になったアンを描いたアン・シリーズ第2巻 『アンの青春』の中で、アンは
リンド夫人と仲の悪い、隣人のハリソン氏に、こんなことを言っています。

「ハリソンさんとリンドのおばさんが お互いに理解し合っていないから、
人を好きでないというのは、いつも原因はそこにあるのよ。
あたしも最初はおばさんが嫌いだったけど、おばさんの人柄がわかってからは、
好きになるように心掛けたのよ」
これに対してハリソンさんは、
「バナナをせっせと食べていれば好きになると言われて 食べ続けるのとはわけが違う。
努力して好きになる人もいるかもしれんが、わしはそうはいかんよ」
と答えます。

そう、「愛する」というと、心の底から湧き出してくる感情のようですが、
実は愛するには、時にかなりの努力や覚悟が必要な場合もあるのです。

そんなことまでしなくてもいいんじゃない?と思いますか?

愛するために、
相手と自分の存在を、ありのままに受け入れようとする努力
相手に対する敬意を深める努力
相手のために時間を取って、時間をかけて理解しようとする覚悟
正しいこと、相手の良さにも素直に心をひらき、従うことのできる謙虚さ、応える努力

「相手」の部分を、「子供」に置き換えてみると、
それはそのまま子育てにも通じてゆくことだし、
もちろん「夫」でも「苦手なあの人」でも「嫁・姑」でも同じこと。
世界中のあらゆる人が、お互いを大切にしあう視点で接することができれば、
この世界はもっともっと優しく、住みやすくなるのではないかしら。

批判や反発からは、ネガティブな感情しかうまれません。
好きでもない人のために、自分がネガティブになる必要もないのかな
とも思えます。


アンはおばさんと親しくなるにつれ、
おばさんのおせっかいの裏の親切心が わかったわけですよね。
おばさんのずけずけと正直に(笑)ものを言うところや、おせっかいを諫めて、変えてやろう
とするのではなく、
おばさんにも良いところがあると素直に認め、好きになる努力をしたわけです。
その結果、きっとアンは、
癇癪を起して爆発した時のアンよりも、
もっとおおらかに、人の欠点もそのまま受け止められる(好きではないにしても)
許容範囲の広い、器の大きな人に成長したのではないでしょうか。
相手を変えてやろうと戦うより、そのほうが自分にとってずっとプラスになることです。

すごくすごく 難しいことですけれども!
物理的な目標も大切ですが、精神的な目標というものを持っていると、
ぶれない自分になれるかもしれません。




隣人
という言葉には、もうひとつ意味がありますが、
続きはまたこの次に。
by patofsilverbush | 2014-04-27 13:52 | ferrbirds赤毛のアン

日々のあれこれを綴ります


by anne