自分をなくす
2015年 11月 26日
自分の意思で、物事を判断し、決断する・・・と、
言ってはみるものの、本当は、
「自分の意思」なるものを なくしたときに初めて、
選ぶべき道がみえてくる ということも、
実感としてわかるような気がしてきた、今日この頃です。
初めてシスターにお会いしたときに、
「自分の考えをなくして、神様のご遺志に従うのよ」
とおっしゃった、言葉の意味が さっぱりわからず、
「自分の考えをなくしたら、自分の意思というものはどうなるのか。
意思のない、人形のようなことができるわけがない」
などと 思ったものでした。
何度もお話を伺っているうちに、
理屈として、
「神さまのみ心が何かを考え、それを実行することができるように」
という考え方は理解しましたが、
それでも、
じゃあ、これは “神さまのみ心”?
それとも、“わたしの意思”?
と 迷うばかりの毎日(笑)。
時には、「誰々のために、わたしはこうしてるのにっ!キーッ!」
なんて、自分勝手に 自分の親切心を押しつけては、
感謝しない相手に腹をたてたりして・・・・エゴまるだしです💦
そう、エゴ。
ああしたい、こうしたい、と思う自分の意思は、つまりは、
自分のエゴイズムなのですよね。
egoismを辞書で引くと、『自己主義・身勝手・自己中心主義』とありますが、
egotismを見ると、
『自分のことばかり語ること(I,my,meの使い過ぎ)・自己顕示欲』
という言葉が出てきます。
エゴイストというと、絵にかいたような嫌な人間、
ドラマや漫画にでも出てきそうな人を想像してしまいますが、
案外、自分のエゴには気がつかないものだという、自分の傲慢さに、
自分で笑ってしまいます。
わたしはこうしたいと思っている。
わたしがこうしようと思いついた。
神さま、わたしはどうしたらいいですか?
神さま、思いつかせてくださって、ありがとう。
家族や友達など、
誰かのためと思って実行したことが、まったく相手に伝わらず、
嫌な思いをしたり、腹をたてたり、ため息をついたりするうちに、
動機はどうであれ、
これは 「自分はこうしよう」と、自分で決めたことだったのだから、
相手の在り方を責めるのはまちがいだった、と気づく。
じゃあ、どうしよう?
どうしたら?
と、わからなくなって、初めて、
すべきことが、わかる時があります。
「こうしたほうが、よかったんだ」と思うときもあれば、
「自分は今、嫌な思いをしても、続けた方が、やっぱりいいんだ」と思うときもある。
実際は、そこでまた
「でもやっぱり、こうやりたいの!」「でも、嫌な思いを我慢し続けるのもいや!」
などと、どうしてもと思ってしまう、
自分のエゴを飲み下すことが、と~っても!難しかったり
するんだけれど。
自分をなくすって、本当にむずかしい。
それがイエス様のなさったことなんだな・・・と思ったとき、
自分を顧みない、信じない、大切にしない 人々のために、
自分をなくすことで示してくださった、
その愛の大きさに、気がつくのでした。
言ってはみるものの、本当は、
「自分の意思」なるものを なくしたときに初めて、
選ぶべき道がみえてくる ということも、
実感としてわかるような気がしてきた、今日この頃です。
初めてシスターにお会いしたときに、
「自分の考えをなくして、神様のご遺志に従うのよ」
とおっしゃった、言葉の意味が さっぱりわからず、
「自分の考えをなくしたら、自分の意思というものはどうなるのか。
意思のない、人形のようなことができるわけがない」
などと 思ったものでした。
何度もお話を伺っているうちに、
理屈として、
「神さまのみ心が何かを考え、それを実行することができるように」
という考え方は理解しましたが、
それでも、
じゃあ、これは “神さまのみ心”?
それとも、“わたしの意思”?
と 迷うばかりの毎日(笑)。
時には、「誰々のために、わたしはこうしてるのにっ!キーッ!」
なんて、自分勝手に 自分の親切心を押しつけては、
感謝しない相手に腹をたてたりして・・・・エゴまるだしです💦
そう、エゴ。
ああしたい、こうしたい、と思う自分の意思は、つまりは、
自分のエゴイズムなのですよね。
egoismを辞書で引くと、『自己主義・身勝手・自己中心主義』とありますが、
egotismを見ると、
『自分のことばかり語ること(I,my,meの使い過ぎ)・自己顕示欲』
という言葉が出てきます。
エゴイストというと、絵にかいたような嫌な人間、
ドラマや漫画にでも出てきそうな人を想像してしまいますが、
案外、自分のエゴには気がつかないものだという、自分の傲慢さに、
自分で笑ってしまいます。
わたしはこうしたいと思っている。
わたしがこうしようと思いついた。
神さま、わたしはどうしたらいいですか?
神さま、思いつかせてくださって、ありがとう。
家族や友達など、
誰かのためと思って実行したことが、まったく相手に伝わらず、
嫌な思いをしたり、腹をたてたり、ため息をついたりするうちに、
動機はどうであれ、
これは 「自分はこうしよう」と、自分で決めたことだったのだから、
相手の在り方を責めるのはまちがいだった、と気づく。
じゃあ、どうしよう?
どうしたら?
と、わからなくなって、初めて、
すべきことが、わかる時があります。
「こうしたほうが、よかったんだ」と思うときもあれば、
「自分は今、嫌な思いをしても、続けた方が、やっぱりいいんだ」と思うときもある。
実際は、そこでまた
「でもやっぱり、こうやりたいの!」「でも、嫌な思いを我慢し続けるのもいや!」
などと、どうしてもと思ってしまう、
自分のエゴを飲み下すことが、と~っても!難しかったり
するんだけれど。
自分をなくすって、本当にむずかしい。
それがイエス様のなさったことなんだな・・・と思ったとき、
自分を顧みない、信じない、大切にしない 人々のために、
自分をなくすことで示してくださった、
その愛の大きさに、気がつくのでした。
by patofsilverbush
| 2015-11-26 10:02
| 心