『めいめい自分の言葉で』

一口にクリスチャンと言っても、
人間ですので、目には見えない「神様」に対する考え方は、
それはもう さまざまです。


「あの方たちの神様は 狭量で 不合理で 不公平で 方便的で
復讐心の強い 頑迷な人物です」
と、ある人の信じる神について語るのは、
ウェブスター作『あしながおじさん』のジュディ。
「あの方たちの行いのほうが、あの方たちの神様より、ずっと立派です」


孤児であるジュディは
「ありがたいことに 私は誰からも 神様を相続しませんでしたわ!」
と ユーモア交じりに、
自分の神様を こう定義します。
「親切で 思いやりがあって 想像力に富み、
罪は許してくださるし、理解があって、そのうえ、ユーモアを解する神様です」




モンゴメリが生きた時代、キリスト教の教義は、
今よりもずっと厳しいものだったと思われます。
神は 愛と許しの存在、というよりも、
正義と裁きの神として、人々の意識に植え付けられていたようです。



結婚後、牧師夫人となったモンゴメリですが、
このような狭量な「神」の定義や、キリスト教の在り方には、
常に疑問を抱いていたようです。



神は 人知を超えた、大きな愛であり、許しである。
人を裁き、自身の楽しみであるかのように、
人に罰や苦悩を お与えになるような存在ではない。


そんなモンゴメリの宗教観は、
多くの作品の中に、直接のテーマとしてではなく、
何気ない言葉の中に 読み取ることができるのですが、
もっと端的に、
作品のテーマとして 「愛と許しの神」を扱ったものが、
この
『めいめい自分の言葉で』という短編です。




主人公のフェリックス少年は、ヴァイオリニストであった父を亡くした後、
赤ん坊のころ すでに亡くなった母の、父にあたる、
牧師である祖父のもとに 引き取られました。

人の魂の奥深くを感じ取り、
その人の心を弾くように、ヴァイオリンを奏でる少年に対し、
そのような音色には 悪魔が宿ると感じた牧師は、
フェリックスに、
ヴァイオリンを弾くことを禁止してしまいます。
「その音楽にはキリストだって宿っているんだ」
と反対する人の言葉を押し切って。


一方、
村の中で、「娼婦」「悪い女」と扱われ、
誰も親しく付き合おうとしない、ナオミという女性の
臨終の床に呼ばれた牧師は、
死に際して、
“まっとうな”道を踏み外し、“罪深い”人生を歩んできた自分を
神が許してくれるはずがない
と恐怖する ナオミの心を
自分の言葉では 癒すことも 静めることができず、
深い空虚感に襲われます。



「怒りと正義と罰の神」
ナオミにとって、神とはそのようなもので、
死んでのち、そのような神に対峙する恐怖は、
地獄よりもはるかに恐ろしいものだったのです。


そんなナオミの心を救い、
「ナオミにわかる言葉で」神の深い愛と、慈しみ、赦しをわからせたのは、
フェリックスのヴァイオリンの音色でした。




実は実際に、
キリスト教で推奨されるところの「他者への奉仕」ということを、

「(牧師の誤っている点は)その奉仕ということを、
本来の意味よりも狭く考えていることだった__
すなわち、
人は人類の求めに応じ、方法はさまざまに異なっても、
同様の効果をあげる奉仕ができるということを 見落としていたのである」


とモンゴメリが書くように、
「この一つの方法しか認められない」とおっしゃる神父や信者さんも、
今でもたくさんいらっしゃいます。


もちろん宗教に限らず
「こうするべき」
「こうあるべき」
「こうでなければならない」
と、持論を押し付け、それ以外は認めず・許さずな人は、
どんな場所にもいますね。
(わたしも含め・・・反省!)




フェリックスを愛するゆえに、「正しい」道を歩ませたいと
ヴァイオリンを禁じた牧師でしたが、

その在り方は 牧師が彼に望んだ道ではなかったけれど、
それが神が定めた、
フェリックスが世界に「奉仕」できる方法なのだと、
牧師は悟るのです。



このお話、実は一番大好き!という作品ではないのですが(笑)
子どもと接しながら、
心に訴える話であるなぁと、
最近、じんわりと沁みたので、
最初にご紹介しました。



親の理想形とは異なるかもしれないけれど、
子ども一人一人に 違う表現や感じ方、個性がある。
自分の考えが、必ずしも「正しい」わけではない。
たとえ理論的に「正しい」としても。


どうしたって、日々の言葉や考え方が、
子供の成長に影響してしまうものだけれど、
少なくとも、
自分の我を、
「親」という権威をふりかざして
子どもが本来持っている性質を、ゆがめてしまいたくないと、
最近、よく思うからかもしれません。




洗礼を受ける前に、
「キリスト教について」の「勉強」はするのですが、
教義や理屈ではなくて、
神がどんな存在であるのか、
愛と喜び、希望、信頼、赦し、癒し、平穏、美、静けさ、満ちること・・・
神に関するさまざまな善を
わたしに最初に教えてくれたのは、
子供のころから親しんだ、モンゴメリの作品であったと思います。





















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Commented by miwako8 at 2016-01-17 21:09
あー・・・、この短編は子供の頃は特にわかりにくかったです・・・。
ナオミという日本人と同じ音の名前が出てきたり、身近にバイオリンを弾く人もいなかったので、その音色についても何がなんだか、さっぱり。
とりあえず最後はうまく話が終わったのはわかったので、安心したという。(笑)
そんな難解さがオタク心をくすぐる一編でもありました。

この場面設定って、現代日本にもありそうな話ですね、なんだかちょっと不思議。
Commented by patofsilverbush at 2016-01-19 10:21
> miwako8さま
そうなんです。子供には、あ、ハッピーエンドでよかったね!くらい、ピンと来ない話でしたよね(笑)。
「神」というものを身近に考えるようになって、初めて、ふぅむ・・・と感じるようになりましたが、それを抜きにしても、確かに、現代日本でもありそうな設定です。時代や、国が変われど、親(大人)が子供に価値観を押し付けてしまいがち、ということでしょうか。

by patofsilverbush | 2016-01-16 16:03 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback(2) | Comments(2)

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