いつも神様と共に

『赤毛のアン』が映画化されましたね。
といっても、おそらく見に行くことはないであろうと思うのですが・・・
(だって~、マシュウにひげがないんですよ!?)

幾度も読み返すアンの物語。
わたしにとっては、神さまの愛を描いた物語でもあり、
近年になってますます強く、そう感じるようになってきました。

「アンがやってきたのは、神さまの思し召しだ。
全能の神は わしらにあの子が必要だとご覧になったのだよ」
とマシュウが言うように、中年・初老の独身兄妹のもとへやってきたアン。
処女のままイエス様を授かったマリアを思わせますし、
マシュウの馬車でやってきたアンが 初めてグリーン・ゲイブルズを見たときの
  
  「 家の上では、雲一つない南西の空に
    水晶のようにすきとおった大きな星が、明るくきらめいていた。
    あたかも二人を家へ導き、将来の幸福を約束する光明のように 」

という描写は、当方の三賢者を導いたベツレヘムの星を思わせます。


驚愕の受胎告知をされたマリア様は
「わたしは主のはしため。お言葉通りになりますように」と
その事実を受け入れますが、
マリラのほうは驚愕を驚愕のまま受け止め、
「主の下さったもの」を、わたしには不要です!と送り返そうとするところが、
いかにも人間!で笑えます。
神様の思し召しであることは、いつもあとになってみないとわからない。


アンが完璧な女の子であるわけではないのですが、
「生まれながらに光の子」だと、モンゴメリは書いています。
主のみ心をこの世で体現しようとするわたしたちは、“光の子”であるという、
聖書の言葉で。
お祈りをしたことがない、といって、これまたマリラを驚愕させたアンだけれど、
「お祈りするときはなぜひざまずくの?
わたしなら一人で深い森の中に入っていき、どこまでも青い青い空を見上げて、
ただお祈りを心に感じるわ」
という言葉は、祈りの形(ポーズ)ではなく 本質をついていますし、
「神様がご自分の喜びのためにつくられたような朝」というような、
この世界の美しさに 神の臨在を重ねた歓びの表現も よく見られます。

少女の成長の物語。
少女を育てる二人の成熟の物語。
という枝葉を茂らせて、モンゴメリが描きたかったのは、
「神の愛」ではなかったかと思うのです。
神は人間に試練を与えたり、厳しいまなざしで人を裁き、罰を与える存在ではない。
人間からは遠い存在などではく、
もっと身近におられ、いつでもそばで わたしたちの幸福を望んでおられるのだ。
ということ。
「神様には、いつ、どんな場所でお祈りしてもいいのよ」
(教会へ行くことだけが、祈ることではない)
と娘たちに教えるアンに、
神様と共にいつもある生き方を、わたしも(たぶん子供の頃から)教わってきたように思います。
エピソードを羅列して、物語の表面的な感動だけを描いても、
アンの物語は完成しないような気が、してしまうのです。

何度読んでも新たな発見がある『赤毛のアン』。
最近また読み返しています。







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by patofsilverbush | 2017-04-30 10:36 | | Trackback | Comments(0)

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