余地
2017年 06月 07日
息子の幼稚園は、近所にあるものの、
いわゆる認可の大きな幼稚園ではなかったので、
小学校で、同じ幼稚園に通っていた、という子はほとんどいません。
みんな小学校に上がってから友達になりました。
親である私も、だから子供たちのことはほとんど知りません。
息子を学校まで送っていくうちに、お互いに顔を覚えた・覚えてくれた子、
ソーイング活動で学校に行くうちに、「あれが○○(息子)のお母さん」と
覚えてくれた子もいるし、
けっこう子供って、「誰々のお母さん」を知ってるもんだなぁ!とびっくりします。
「しっかりした子なんだな」
「身体は大きいけど、おっとりしてるんだね」
「うちの子と似たようなタイプなのかな」
「活発なんだね」などなど、
息子の話しから、それぞれのお友達の印象を受けるわけですが、
ときどき、主観と客観ということを考えます。
仲のいい、好きなお友達のことを話すときには楽しい気ですが、
相手のいいところや、かっこいいところばかりではなく、
「意外とこんな面もある」ということをぱっと話すときなど、
本人はたぶん無意識だけれど、相手のことを客観的に見ているんだろうなと
感じることもあります。
いいところも、そうでないところもあって、総合して「誰々」。
一緒にいて楽しいときもあれば、今日は一緒に遊びたくないかな、
という日もあって、それがふつうというか。
男の子ならではのさっぱり感なのかなぁ。
一方、ちょっと苦手な子の場合は、
なかなか「いいところ」に目がいかないようで、
そんなときには、主観で話しているのかな?
それとも、それが客観的に見たその子の姿なのかな?
と、相手を知らない、受け手である私は ちょっと考えなければいけない時もある。
うちの子がこういっていたからと言って、
悪いのはうちの子かもしれない、ということも、
往々にしてありますからね。
もしかしたら、息子の言う通りの子なのかもしれないし、
そうでないかもしれない。
と、思う余地は、必要かなと思います。
自分の目線もそうですが、
何事も客観的にとらえるのは難しいことです。
つい、感情的になったり、ある一つのことにしか、目が向かなくなったりする。
視野が狭くなっている。
正面からは見えないけれど、球体には裏側もある、
と思う、心の余地は、ないよりあったほうが、きっと心が緩やかだし、おだやか。
いわゆる認可の大きな幼稚園ではなかったので、
小学校で、同じ幼稚園に通っていた、という子はほとんどいません。
みんな小学校に上がってから友達になりました。
親である私も、だから子供たちのことはほとんど知りません。
息子を学校まで送っていくうちに、お互いに顔を覚えた・覚えてくれた子、
ソーイング活動で学校に行くうちに、「あれが○○(息子)のお母さん」と
覚えてくれた子もいるし、
けっこう子供って、「誰々のお母さん」を知ってるもんだなぁ!とびっくりします。
「しっかりした子なんだな」
「身体は大きいけど、おっとりしてるんだね」
「うちの子と似たようなタイプなのかな」
「活発なんだね」などなど、
息子の話しから、それぞれのお友達の印象を受けるわけですが、
ときどき、主観と客観ということを考えます。
仲のいい、好きなお友達のことを話すときには楽しい気ですが、
相手のいいところや、かっこいいところばかりではなく、
「意外とこんな面もある」ということをぱっと話すときなど、
本人はたぶん無意識だけれど、相手のことを客観的に見ているんだろうなと
感じることもあります。
いいところも、そうでないところもあって、総合して「誰々」。
一緒にいて楽しいときもあれば、今日は一緒に遊びたくないかな、
という日もあって、それがふつうというか。
男の子ならではのさっぱり感なのかなぁ。
一方、ちょっと苦手な子の場合は、
なかなか「いいところ」に目がいかないようで、
そんなときには、主観で話しているのかな?
それとも、それが客観的に見たその子の姿なのかな?
と、相手を知らない、受け手である私は ちょっと考えなければいけない時もある。
うちの子がこういっていたからと言って、
悪いのはうちの子かもしれない、ということも、
往々にしてありますからね。
もしかしたら、息子の言う通りの子なのかもしれないし、
そうでないかもしれない。
と、思う余地は、必要かなと思います。
自分の目線もそうですが、
何事も客観的にとらえるのは難しいことです。
つい、感情的になったり、ある一つのことにしか、目が向かなくなったりする。
視野が狭くなっている。
正面からは見えないけれど、球体には裏側もある、
と思う、心の余地は、ないよりあったほうが、きっと心が緩やかだし、おだやか。
by patofsilverbush
| 2017-06-07 09:26
| 心