カテゴリ:ferrbirds赤毛のアン( 44 )

『失敗した男』

ちっともうまくならないバレエでしたが、
ステージ前の あの緊張感や 恐怖とともに、
忘れられないのが、やっぱり、
ライトを浴びる快感?というものでしょうか。

基本的には 人前で何かすることや 目立つことは大の苦手で 
今でも、いつでも、しどろもどろしてしまうのですが、
なんていうか、ステージの上って 独特ですよね。

当時見ていた『フェーム』というドラマは
未来のスターを夢見て 芸術学校で日々練習に励む
高校生たちの姿を描いたもので(今の『グリー』に似ているかな)
冒頭のテーマ曲とともに、いつも ダンスの先生のセリフが流れるのです。

「あんたたちは名声を夢見ている。
でも名声への道は、長く険しい道よ。いいね!?」


ステージでスポットライトを浴び、喝さいを浴びるスターが、
私生活で必ずしも幸福だとは限らない、
というのは 悲しいことでもありますが、
そんなものを投げ打っても つかみたい何かがある、というのは、
わかるような気がします。


「わたしは今までずっと くずだった。
そこへ、何かになれるチャンスが訪れたのよ。
そのチャンスを捨てることはできなかった、
たとえジョーのためではあっても」

マリリン・モンローもかつて、
ジョー・ディマジオとの離婚について、
インタビューでこう言っていますしね。



前置きがすっかり長くなってしまいました。
『失敗した男』は、文字通り、「人生に失敗した」男の話です。
子供の頃は、ふつうの話、ごく平凡なストーリーだと思っていたのですが、
大人になった今は、
読むとなんだか、泣いてしまう。


事業で成功をおさめ、巨万の富を築いたもの、
大学の学長をしているもの、
歌手としての名声を博しているもの、
日の出の勢いの弁護士の妻として、多忙な生活をしているもの・・・
華やかな人生を送る、モンロー一族の中で、
長兄・ロバートだけは、みすぼらしい小さな農場主です。

成功をおさめた弟妹たちを 誇らしく、うれしく思うロバートでしたが、
ふと耳にした叔母の言葉が、
彼の心に深く突き刺さります。
「ロバートだけは、人生の失敗者。
なにひとつ、ろくなことはしていない、一族の恥ですよ。」


権力をかちえたり、富をたくわえたりできる自分ではないことを、
よくよく知ってはいたものの、
そんなことは大した問題ではないと思っていたロバートですが、
そんな自分が、
一家の、弟妹達の恥であったのだと、
叔母の目を通して見る自分の「真の姿」に初めて気づき、
胸の痛みと、自分に対する恥ずかしさで 
心がいっぱいになってしまいます。

ロバートの様子に気がついた妹のエディスは、
兄の「真の姿」を、兄自身に気づいてほしいと、
きょうだいたちに、あるくわだてを相談します・・・。


貧しく、地味な暮らしをしている、
目立たないロバートの「真の姿」とは、
はたしてどんな姿なのでしょうか?
ロバートの人生は、真に「失敗」だったのでしょうか?



誠実さ、やさしさ、
人生の過酷な状況に 屈しない心の強さ、
聡明さ、誇り高くあること、献身、
信じること、辛抱強くあること、
己の意思をもって行動する勇気・・・
目には見えないけれど、
真に価値あるもの。


目に見えるものに惑わされ、
流されてしまいそうになる自分に気がつくとき、
この話は、
自分がいたい場所、いるべき場所につなぎとめてくれる、
錨の役目をしてくれるのです。



「みんなに でくのぼう とよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに わたしはなりたい」

そんなふうに書いた宮沢賢治を、この短編を読むと、
いつも思いだします。



人生が「成功」だったか、「失敗」だったか。
「そこから得たものより、そこに自分が何をつぎ込んだかによるのよ」
と、アラン夫人がアンに語る場面がありますが、
それはやはり、他人の目には一目で見ることのできない、
その人らしい、パーソナルな部分なのでしょう。

みんながそれぞれ、
苦しくないように歩めたら。


と思います。













[PR]
by patofsilverbush | 2016-03-26 10:35 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

『ロイド老淑女』

眠りについていたものたちが、生き生きと目を覚ます、
喜びの季節。
そんな春を、毎年 やりきれない気持ちで過ごす、
ロイド老淑女。

わたしは、モンゴメリの描く「老婦人」の話が
ロマンチックなラブストーリーと同じくらい、大好きなのです。
年を重ね、人生の豊かな経験を積んだ、
寛容で、慈悲深く、奥行きのある老人といえば、
モンゴメリの場合、「おじいさん」であることのほうが、多い気がします。
どちらかといえば 偏屈だったり、
内に秘めた情熱を誰にも知られることのない、
平凡だったり、貧しい暮らしをしていたり、
長年のうらみを抱いていたり・・・
することの多い、
モードの「老婦人」たち。

そんな「老婦人」たちのお話の中で、
これは一番好きな短編です。



金持ちで、村の名家のお嬢さんであったにもかかわらず、
今ではたいへんなケチで、教会へも足を運ばず、
人目を避けて暮らしている変わり者、
と 村人たちから思われている、ロイド老淑女。
実はたいへん貧しく、
三度の食事にも事欠くありさまだということは、
誰も知らないのです。


教会へ行かないのは 
献金のためのお金すらないから。
かつては美しく、ファッションリーダーであったのに、
母の古着を直しなおし 着ている姿を見られたくない。
一日に二度しかできない食事、
しかも、数枚のクラッカーやなにかで 飢えをしのいでいるだなんて、
誰にも知られたくない。
そんな意地や、見栄から、
誰にも心を開かず、貧しさと寂しさに長年耐えてきた 老淑女にとって、
ものみな花開く、生き生きとした歓びにあふれた春は、
ことさらにやりきれない季節でもあったのです。


『彼女には愛するものがなにもなかった。
これこそ人間にとって もっとも不健全な状態である』


美しい服や、食べるものがないということ。
そんな生活の表面的なことではなく、
彼女の不幸せの本質を、モンゴメリはこう表現しています。

その、美しい春のある日、
老淑女は、村のある家庭に新しくやってきた 音楽教師の少女を見かけます。
見覚えのある、なつかしい面影。
彼女は、ロイド老淑女のかつての恋人、
人生でただ一度愛し、つまらぬけんかで失ってしまった恋人の 
娘だったのです。


もし彼と結婚していたら、自分の娘であったかもしれない。


そんな思いから、老淑女は、
貧しいながらも、自分にできる精一杯の愛場を込めて、
彼女の生活を楽しいものにしたいと、
秘密の贈り物を与え続けます。
小さな花束や、かごに摘んだベリー、
自分が飢えて死のうとも、後生大切にしていた、家宝の壺を売って、
ドレスを贈ったり、
「父親のものは、なにも持っていない」という娘の言葉を聞いて、
なによりも大切な思い出であった、詩人の恋人から贈られた、
自費出版の 小さな詩集を贈ってしまったり。

送り主は自分だと名乗ることもせずに、
老淑女は、娘にありったけの愛情を捧げるのです。




キリスト教でよく言われる、「自己犠牲」の精神。
自分の利益や 損得はかえりみず、誰かのために尽くすこと。
日本人の感覚から考えると、なんとなく、
自らを犠牲にして他者のために!という、
つらく、重苦しい、
悲壮感の漂う美談(-_-;)のようなイメージがありますが、


モードの描く「自己犠牲」は、
犠牲とは 本当はそんなに苦痛なことではないということを、
わたしたちによく教えてくれます。


よろこんでハイハイと言いなりになれる事では、もちろんないのです。
自分のしたいことを我慢して、誰かのために時間を使うことや、
自分のほしいものを我慢して、誰かのためにその分まわすこと。


「犠牲」を払おうと決めるまでの、
自分の欲望との葛藤や、損得勘定は、きっと誰にだってあるのだから。
でも、そこを超えたときに、
払う「犠牲」は、義務感も何もなく、
ただ単純な喜びや 満足に変わるものなのです。
自分がそうしようと 決めたことを、実行するから。
誰かに強いられたことではないから。
良心に従って行動することは、
苦痛ではなく、喜びを伴うことで、
そこが“神様のみ心”が働いているのだなぁ!と思う、ゆえんです。
だって神様は、わたしたちに
幸せと、喜びだけを与えたいと思っているのだから。
もう、あふれるばかりに。



貧しさゆえ、
その愛しい、家庭教師として働く 貧しい娘に、
自分が何をしてあげられるのか、
見当もつかず、ロイド老淑女は神に祈ります。


『あの娘のために、わたくしにできますことを
なにか考えつかせてくださいませ。
なにか わたくしにできる、小さな__小さなことを
思いつかせてくださいませ』


美しい、お祈りの本質というべき祈り。
神さまはその祈りをかなえ、
ロイド老淑女の春は、若い喜びに満ちていたころと同じように、
「ふたたびいとしい、美しいものになった」のです

『愛がもう一度、老婦人の心によみがえり、
飢えた魂が 神の食べ物というべきその愛を 豊かに味わったからであった』



美しい春、五月からはじまり、
実り豊かな十月へと、移りゆく物語。
最後に老淑女は、最大の「自己犠牲」を払い、
最大の「愛」の豊かさを受けることになります。



『神と人とは 程度の差こそあれ、
種類は違わぬ、同一物ではなかろうか?』

与えるものが大きいほど、得るものも、また大きい。




プリンス・エドワード島の 美しい自然の描写とともに、
言葉のひとつひとつを じっくりと味わいたい、愛の物語です。










[PR]
by patofsilverbush | 2016-03-22 10:11 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(2)

鉄かせ 『赤毛のアン』第15章・3

さて、コンプレックスの赤毛をからかわれ、
“女の子らしく” 黙って泣き出す・・・どころか、
ギルバートの頭に おもいっきり石板をたたきつけ、
石板はまっぷたつに!!!  という、
前代未聞、ドラマチックな事件を起こしたアン。

アヴォンリー小学校の生徒でなくとも、
教室でこんな騒ぎが起こったら、
見ているほうは わくわく?してしまいます(笑)。
他人事だったら 最高におもしろいと思う(笑)。


怒れる先生の前でも アンをかばい、
ごめんと謝るギルバートを 完全に無視するアンに、
「すごいわね」とダイアナは 
“非難と感嘆をないまぜにしたようなため息” をもらします。
いたずらした女の子に 謝ったためしのないギルバートの謝罪、
しかも、とびきりハンサムな男の子からの謝罪の言葉を、
無視するなんて・・・!


アンは断固として、ダイアナに告げます。
「絶対に許さないわ。
“我が魂は鉄かせにとらわれた” のよ、ダイアナ」 __と。



アンの怒りをあらわすこの言葉は、聖書からの引用文です。


    主はこの地に飢饉を呼び パンの備えをことごとく絶やされたが
    あらかじめ ひとりの人を遣わしておかれた
    奴隷として売られた ヨセフ
    
    主は、人々が彼を卑しめて足かせをはめ、
    首に鉄のかせをはめることを許された
    主の仰せが彼を火で練り清め み言葉が実現するときまで
                       (詩編105ー16~19)


ヨセフは旧約聖書に登場する人物。
神に愛された存在でありながら、
そのことを自慢したため、兄弟にうとまれ、
奴隷として異国の地に売られてしまいます。
牢獄に捕らえられていたヨセフですが、
神から賜る言葉を かの地の王に伝え、
災害の危機を乗り切り、多くの民を飢えから救います。


そんなヨセフのように、わたしの魂も、
怒りの鉄かせに捕らわれたのよ、ダイアナ。
という、引用。

聖書を読んでみて、
モード、すごいなぁ!と 思わずうなった引用文でした。



彼女の魂を “鉄かせ” に捕らえたのは、誰でしょうか?
ほかでもない、アン自身です。

からかったギルバートのことも
彼の説明もきかずに アンだけを叱った先生のことも、
「許さない」と決めたのは、アン。
そして言葉通り、アンはその後何年ものあいだ、
ギルバートを許さず、自分自身を怒りの鉄かせに閉じ込め続けたのです。
“主のみ言葉が実現する”、 その時まで。


主のみ言葉と言えば、
互いに許しあうこと、互いを大切にすることですので、
アンがその言葉の意味を、きちんと心で理解し、
怒りや 自尊心を飲み込んで、
ギルバートに素直に心を開く、そのときに、ようやくアンは、
自ら作った鉄かせを はずすことができたわけなのです。


イエス様が地上にやってきたのは、
「捕らわれた人を開放するため」です。


人は、多かれ少なかれ、こんなふうに、
自らを 何かの中に閉じ込めて 生きていることも多い。
怒りや恨み、憎しみや悲しみといった感情であることもあるでしょうし、
偏見や 固定観念といったことも、あるかもしれない。
コンプレックスに囚われていることも、ある。

誰かの、何かの、起きた出来事の、
せいにしてしまうことも、多々あるのですが、
その、心にできてしまった “かせ” から、自分を解放できるのは、
いつも自分自身でしか、ないのです。



つらいときにそばにいて、
一緒に嘆いたり、
恨んだり、憎んだりする気持ちに、静かに耳を傾けてくださる、
そうやって神様は、
わたしたちが自分を解放することができるよう、
お手伝いしてくださる方なのです。


かせをはずすために、
長い長い時間が、必要なときもありますね。
もし、つらく、悲しい思いを ひとりで抱えていたら、
ゆっくり、じっくり、お話を聞いてくださる方に、
どうぞ心を解放なさってください。
















[PR]
by patofsilverbush | 2016-03-07 09:31 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

“学校”よりも大事なこと 『赤毛のアン』第15章・2

子供が学校で 問題をおこしたら?
もう2度と学校なんて行かない!と言い出したら、どうしましょう?



エイミーのお母さま、マーチ夫人は、
「とりあえず、学校へは行かなくていいから、家で勉強なさい」派。

学校教育というものが、重きを置かれていなかった時代背景もありますが、
罰として鞭で(手のひらを)ぶつ、という体罰に 賛成できないことや、
ちゃらちゃらとしたお友達の様子も、
エイミー自身のためにならないようだから、
というのが理由です。

罰受けて 慰めを求めていたエイミーは、
お母さまのこの言葉に、
学校、ざまぁみろ!というような気持になりますが
(*こんな悪態をついたりはしませんが)
「規則を破ったこと、先生の言いつけを守らなかったことに対して、
罰をうけるのは 当然です」
と ぴしりと言われてしまいます。

娘たちに どんな大人になってもらいたいのか、
それぞれの個性や欠点を鑑みながら、
人として美しく成長してもらいたい と願うマーチ夫人。
エイミー自身の成長に、「今」、そのことがプラスなのかマイナスなのか、
きちんと考えたうえでの判断で、
けっして甘やかしているわけではないんですね。





ローラの両親であるインガルス夫妻はどうでしょうか。

まったくの誤解や偏見から、
先生に嫌われ、いわれのない いじわるをされたローラ。
ずっと我慢していたものの、怒りが爆発してしまい、
反抗的な態度をわざととり、前代未聞の罰を受けてしまいました。
ローラの話を聞いた 父さんと母さんですが、
「それでも 何事もなかったように学校に行きなさい」派。


開拓地を転々とし、学校教育を受ける機会のほとんどなかったローラ姉妹。
それでも 教育を受けるどんな機会でもあれば、
父さんと母さんは娘たちを学校へ通わせました。

教育を受ける機会のあることが、どんなに貴重であるか。
どんな人であれ、先生は先生、
物事を教えてくださる人なのだ。
その機会を無駄にしたり、
教えてくださる人に 反抗的な態度をとるのは よくないことである。

そうローラを諭し、

先生に対しての怒りを訴えるローラに対して、
では、なぜ
先生はローラのことを誤解したり、偏見を持ったりしたのだろうか?
と そもそもの原因を考えさせます。


得難い機会を 与えてもらっていることに対する感謝や、
自分とは違う考えを持つ人に出会ったとき、
ただただ 怒りに任せるのではなく、
相手の気持ちを考えてみること、
齟齬があるならば、自分にも非がなかったのかどうか、
そして、
何かを得るためには、時として忍耐することも必要である、
ということを、ローラに教えるのです。



学校が好きではないローラですので、
心底、その話に 素直に納得することはできないのですが、


勉強が好きだったのに、目の見えなくなったことで、
教師になる夢を あきらめざるを得なくなった 姉のメアリーを 
盲学校に入れてあげたい、
その学費のためにも、
自分が代わりに教師となって、両親を支える収入を得たい、
そのためには 教育をうけなければ、という気持ちが
いつも心の底にあり、
誰かのために、忍耐すること、
自分のできるベストを尽くそうとすること
責任感などを、こんな経験からも学んで 大人になってゆくのです。


目先のことだけではなく、
こちらもやはり、将来、ローラにどんな人になってもらいたいのかを考える、
父さんと母さんの「今」、ローラに必要なことは何か 
という判断です。





では、我らが案を育てる、マリラはどうでしょうか?


アンの話を聞いたマリラは、とにかくアンが受けたと訴える
「屈辱」や「侮辱」をばかばかしく思い(笑)
(だって かんしゃくをおこして人の頭を殴り、
石板をたたき割ったのは、アンのほうですからね。
名前の綴りから “E” を書き落とした とか、
悪い子はほかにもいたのに、自分だけ罰を受けた、とか、
「屈辱」というより、悪かったことは、確かなのですから。)

「明日からも学校に行きなさい」

と、とりあえず、ふつうに親が言いそうなことを、まず言います(笑)。
子どもの感情を、うっかり軽く考えてしまうのは、
とりあえず 穏便にことをはこびたい、親のしそうなことですよね。


がんとして行かないと言い張るアンの態度を見て、
ひとまず口をつぐんだマリラですが、
友人のリンド夫人の相談したところ、
アンの気がすむまで、学校を休ませろと言われて びっくりぎょうてんします。

「今 無理に行かせたところで、
また問題をおこすのが 関の山だよ。
それに、ギルバートをたたいたことは 罰を受けるのは当然だけれど、
ほかの遅刻した子には罰を与えず、
アンにだけ(代表として)罰を与えたのは、先生のやり方がまちがっているよ」

親身な親目線ではない、
一歩引いた、冷静なリンド夫人の判断にしたがって、
マリラはとにかく、自分の感情を抑え、
アンの気すむまで 
学校のことは口にせず、
家で勉強と手伝いをさせることにしたのでした。

いうなれば
「とりあえず、休ませて様子を見る」派(笑)。
わたしもこれだな。




いろいろな判断がありますが、
どの家庭でも、
子供の話をきちんと聞いている、というのが印象的です。
「なんでもいいから、とにかく学校には行きなさい!」
「不登校なんて、困るでしょ!」
と 頭ごなしに言うのではなく、

まずは子供の話を聞く。
子供の話だけでは判断できなければ、
事情をよく知っていそうな人に話を聞いたり。


学校に行きなさい、という言葉の、
“学校” に代表される、
世間体や、立場や、安易に考えてしまう将来の事って、
子どものためになるのか、よくわからずに言ってしまうことも、
多い気がします。

「今」、その子に何が必要なのか。
将来、大学に行くため、いい企業に就職するため、
ではなくて、
将来、子供自身が、どんな人になってもらいたいのかを考えての、
「今」の決断。



どんな子にも訪れる可能性のある、不登校や、
ちょっとしたトラブル。

子どもと向き合うことは、事なかれ主義ではすまない、
時間も、精神力も必要なことです。


乗り越えるのは 子供自身の力ですので、
なにもかもお膳立てしてあげることは、もうできない年齢です。
だからこそ、
きちんと子供と向き合うこと、
自分の気持ちや “常識” を とりあえず押し付けるのではなく、
一個の人格を持った、彼らの気持ちを、
まずは じっくり聞くことが、
大人ができる、
子供に対する 最大級の敬意ではないかと思うのです。





















[PR]
by patofsilverbush | 2016-03-05 10:40 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

“学校”よりも 大切なこと 『赤毛のアン』第15章・1

春爛漫の6月に、グリーンゲーブルズへやってきた アン。
学校へ行かれるような “まともな” 服を作ってもらったり、
日曜学校へ行ったり、
初めての親友・ダイアナと遊んだりしながら 夏を過ごし、

いよいよ秋からの通学が始まりました。

自分の家庭から、ご近所の人、お友達・・・と 
少しずつ世界を広げていって、
さあ、初めて、親の目の届かない世界へと出かけてゆくわけです。


幼稚園に入園するとき、小学校に入学するときに、お母さんが感じる、
あの月並みな心配を、やっぱりマリラも、同じように感じます。
うちの子、かわってるけど大丈夫かしら・・・



小さな村ゆえ、この先も長いお付き合いになるクラスメートたちが、
たくさん登場し、
マリラお母さん(笑)の心配をよそに、
子どもは自分の力で、お友達も作ってゆくものですよね。
アンも楽しく学校へ通い、マリラはほっと胸をなでおろしました。


ところが、それもつかの間の事。

ハンサムだけれど いたずらっこのギルバートに、
コンプレックスの赤毛をからかわれたことで、
アンは持ち前の癇癪玉を破裂させ、
ギルバートの頭を石板で殴りつけてしまいます。

罰として、みんなの前で立たされるという屈辱を味わい、
(しかも先生ときたら、アンがこだわる名前の綴り・ANNEを
ANNと書いて 平気な顔をしているし!)
さらに翌日、
昼休み明けの授業に遅刻した罰として、
よりにもよってギルバートの隣に座らせられる、とあっては、
アンも平静ではいられません。
二度と学校へは行かないと言い出し、またもやマリラを困惑させます・・・




日本でも、男女七歳にして、席を同じうせず
と言っていたように、
男の子と女の子を隣同士で座らせるなんて、
不謹慎の極み!というような 時代。

学校で先生に受ける罰 といえば、
黒板の前に立たされることや 休み時間に外に出してもらえないこと、
放課後に残されること などがあり、
男女一緒に座らされることは、生徒たちからしてみれば、
かなりの屈辱、むち打ちの一歩手前くらいな勢いです。


同時代の物語『トム・ソーヤーの冒険』では、
腕白小僧のトムは しょっちゅう鞭でぶたれていますし、
憧れの女の子・ベッキーの隣に座りたくて、わざと
悪いことをしたことを 先生に告白したり、
罰を逆手に取った作戦も駆使していて、たくましいなぁ、という印象。



一方、女の子にとっては、やっぱり先生に怒られ、立たされるなんて、
不名誉極まりないできごとです。


ローラ・シリーズでは、
ローラが、鞭でぶたれることより悪い罰、
「家へ帰される」という罰を受けた場面が 描かれています。
それ以上の罰と言えば、もう退学しかない、というほどの重い罰で、
みんな、話には聞いたことがあったけれど、実際にそれほどの罰を受ける人はいなかったため、
教室中がしーんと静まり返ってしまいました。




『赤毛のアン』の前の、家庭少女小説のベストセラーと言えば、
『若草物語』ですから、
アンの物語には、『若草物語』を踏襲した場面がよく出てきます。


学校で屈辱的な目に合う、この場面は
『若草物語』の中で、末娘・エイミーが、
学校では禁止されている 塩漬けライムを持っていったことがばれて、
立たされる場面の パロディとも、いえるかもしれませんね。



こんなふうに、子供の成長に、学校での出来事は、
欠かせないもので、
世間の荒波?を乗り越えながら、やがてはばたける力を身につけてゆくわけですね。
たくましさだったり、柔軟性だったり。
親は 小さなことから大きなことまで、
心配しいしい、見守るしかないわけなのです。



では、物語の主人公たちの親は
いかにして、この難局を乗り越えたのか!?(笑)
続きは次回に。










[PR]
by patofsilverbush | 2016-03-03 09:11 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

円熟する 『赤毛のアン』 第13章・3

少女の時期を過ぎ、「大人」になっても、
日常におこるちょっと特別なできごとを、
人よりもさらにドラマチックにとらえがちなアン。
期待と失望を見るにつけ、マリラとアンの間には、
少女の頃と同じような会話が繰り返されます。


「あんたはやっぱり、ひとつ事を思い詰めて、それが叶わないと
がっかり打ちのめされてしまうくせが なおっていないようだね」

「なにか素晴らしいことが起こると思うと、想像の翼に乗って飛び上がるの。
それで気づいた時には 地面にどさんと落ちているのよ。          
でもね、マリラ。
飛んでいる間は 本当に素敵よ。
夕日の中を舞い上がっていくようなの。
どさんと落ちても 埋め合わせがつくくらいよ」



そんな会話をしつつも、
アンを育てた後、実はさらに、
遠縁の親戚の子である 双子の男女を引き取ることになったマリラ。
独身で、人生の折り返し地点を迎えて久しいはずの人生だったのに、
何がおこるか分かりませんね!
そんな子育て経験を経て、
右も左も 世間のことはさっぱりわからないアンに、
一生懸命 処世術を教えようとしていたマリラには、
ある心境の変化が訪れていました。


「わたしなら 静かに歩いていきたいね。
とびあがったり、どさんと落ちたりするのはごめんだよ。
けれど人には それぞれ生き方があるからね。

以前は 正しい道は一つしかないと決めていたけれど・・・
あんたや 双子を育ててみると、そうとばかりは言えない気がするんだよ」



マリラが理性をもって アンを育てたように、
アンもまた、
天然自然の愛情をもって、
心のままに生きることの素晴らしさや
自分の在り方とは違う他者を受け入れる人間へと、マリラを育てたのです。


それとも、
もともとのマリラは、 
ユーモラスで、人と違っている自分だって
おもしろがれる性質だったのかもしれませんね。
自分では気づかないうちに、「分別」くさくしていただけで。
だって そそっかしいアンの失敗や、おかしな言動を愛し、
無理やり型にはめようとはせず、子育てを楽しめているんですもの。



『赤毛のアン』は 少女の成長物語であると同時に、
マシュウとマリラが 大人としての円熟を深めていく、
誰にとっても成長の物語でもあるのです。

「大人の対応」ができるようになる、
そのもう一歩先にある、人としての、情の深さ。

辛抱強く待つこと、受け入れること、見守ること。
自分の主義・主張を抑え、「自分」をなくすことで、
生まれてくることがありますね。
視野の広さ。
思いの深さ。
たおやかさ・・・
偏狭な自分の思いから 一歩抜け出て、
もう少し自由に、ものごとを考えられるようになったり。




前回に書いた、
モードの、友人への書簡。
自分の激情を自制することが、多少なりともできるようになったと書いたあと、
モードはこんなふうに、話を続けています。


『わたしもいつか、この修練が完了し、
憧れの、もっと満ち足りた、もっと広い世界に
踏み込めるようになることを望んでいます』



物事や人に対して 湧き上がる自分の感情を、いったん抑えること。
でも、抑えたその先に、
起こる出来事や他者、あるいは 自分自身を
あたたかな思いやりも持って、見守ることができるようになる日が、
くるかもしれない。
起こる出来事を、静かに受け止めることや、
自分や他者の至らなさを、「待つ」ことができるようになるかもしれない。

そこに、
ありのままの自分と、他者を 同じようにいつくしむ世界があるのだと、
モードは感じていたのだと思います。
自分と、他者と、世界が、ひとつになる世界。
正しい道は ひとつではなくて、無限。
その自由さ!広大さ!豊かさ!



060.gifありの~ままの~姿見せるのよ~
と歌うエルサが、
ありのままの姿で、カラに閉じこもり、
ひとりぼっちでいい、誰にも理解されなくていいと思うだけではだめで、

誰かからの愛を信じ、
自分を愛すること、他者と違う自分を受け入れることで、
幸せになるように。




さらにさらに時を経て__
大切な息子たちを、戦地に送り出すアンには、
もはや感情に任せて浮き沈みするような激しさは 見られません。
つらい気持ちや 涙を抑え、
自分の意思とは無関係に巻き起こる、戦争の中で、
自分にできることに精いっぱい取り組み、
じっと忍耐する姿を、モードはわたしたちに
ちらりと垣間見せてくれます。

それでも、アンは、アンらしく、
やはり「ふつうの」人とは違う、
彼女らしい個性を持った女性として、
友達から、子供たちから愛され、慕われる存在です。





自分と他者の違いを 受け入れること。
自分が、「ありのままの」自分とは、違う装いをしている
かも、しれない と気づくこと。
いったん「自分」をなくすことで、見えてくるものもある。

受け入れがたいコトを飲み込むのは、
並大抵のことではありませんが、
その「修練の先」の、
「憧れの、満ち足りた、広い世界へ」と向かいたい、

それがわたしの、13章でした。











[PR]
by patofsilverbush | 2016-02-03 12:04 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

円熟する 『赤毛のアン』第13章・2

さて、
牧師さんが、ピクニックの開催を正式に発表するのを聞いて、
「興奮のあまり体中が冷たくなり、ぞくぞくっと鳥肌が立った」
と話すアンに、 マリラは吐息をつきます。
 

「あんたは物事に執着しすぎるよ」

物事は、自分の思い通りになることばかりではない。
わくわくと期待して待つことが 現実にならなかったとき、
待つ喜びが大きいほど、失望も比例して大きくなることにもなる。
そんなアンの性質を、マリラは懸念したのです。


「この先の人生で、何度もひどくがっかりするんじゃないかと思いやられるよ」



感受性豊かなアンの、この性質は、
そのままモード・モンゴメリの性質でもありました。

モードは友人への手紙に、この自分の性質について、こんなふうに書き綴っています。



『以前はとても衝動的で、感情の起伏の激しい性格でした。
気短かということではなく、憎しみにせよ 愛情にせよ、
いったん心に生まれると、とことんまでいってしまたものです。
それは重大な欠点であったばかりか、
知的・精神的・肉体的に、多くの点で害を与えるものでした』



自分の激情のままに、心を揺り動かされること。
小さな喜びに 天国まで舞い上がることも簡単なら、
絶望のどん底に突き落とされるのも、また容易な性質。


人生の様々な局面や、体験、
意思に反して余儀なくされる生活が、そんな自分に
「自制心を働かせる習慣を身につけさせてくれた」と
モードは続けます。



『この欠点を根絶したという確信はありませんが、
人に対しても自分に対しても、
穏やかに、はるかにあたりの柔らかい人間になりました』



もって生まれたままの性質を、自制して抑えることは、
いっけん、ありのままの自分を隠すことに見えますね。
大人になってゆく過程で、人は、
他者を傷つけないよう、また自分が傷つかないよう、
もともとの性質を抑えたり、隠したりせざるを得なくなります。
一人一人が思いのままににふるまう世界では、誰も安心して暮らせません。
自分の役割を、それぞれがきちんと責任をもって果たすために、
時には自制し、譲り合うことや、妥協点を探ることも必要です。


ずけずけと思ったことをそのまま口にすることが、
必ずしもいいわけではないし、
自分の気持ちより、相手の心を思いやることや、
他者を理解しようとする努力、
自分とは違う、相手の在り方を受け入れること。
住みよい世界は、一人一人の そんな努力やルールがあって、
生まれるものなのですから。


「世界には自分だけ」のような 幼児のふるまいを経て、
「自分と他者のいる世界」を作ってゆけるようになることを、
世間では、“成長” と呼ぶのかもしれません。



ちょうど、突拍子もない行動で、マリラやリンド夫人や唖然とさせるアンが、
マリラから「分別」を学び、
周囲と調和することも学んで行くように。




一方、憂えるマリラに、アンは自分の喜びの気持ちをこんなふうに説明します。


「何かを期待して 待ち焦がれることも、
楽しみのうちの半分だわ。
期待して 思い通りの結果にならないこともあるかもしれないけれど、
待ち焦がれるときの楽しさは、誰にも止めることはできないわ。
何も期待しないより、期待して失望する方が、ずっといいわ」




アンのこの性質は 大人になってもずっと変わらず、
やがて大きくなってからも、
アンとマリラの間には、同じようなやりとりが繰り返されるのです。

しかしそこには、時を重ねてきた変化も、見受けられます。


この続きは、また次回に♫








[PR]
by patofsilverbush | 2016-01-30 09:51 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

円熟する 『赤毛のアン』第13章・1

free birdで読んでいる『赤毛のアン』は ただいま15章。
ずいぶん長らく更新していませんでしたが、
実は13章が、個人的にとてもむずかしかったのです💦



通い始めた日曜学校で
夏の一大イベント、ピクニックがあると聞き、
うきうきと心待ちにするアン。
「アイスクリーム」なる食べ物が出る、とダイアナに聞いたものの、
アンの想像力をもってしても、
一度も食べてことのないアイスクリームの魅力ははかりしれません。
楽しい期待がふくらむばかり,
頭の中はピクニックのことばかりです・・・



と、楽しみを夢中で心待ちにする、子供の可愛い様子がつづられていきますが、
ほんとうに子供って、こんな感じですよね。

「いついつに、どこどこに行くよ」
なんて、ちょっと言おうものなら、
それが明後日だろうと、一週間先、ひと月先であろうと、
頭の中はもう そのことでいっぱい!
寝ても覚めても、興奮して、話すことと言えば、そのことばかり・・・
少なくとも わが息子はアン同様なので、
聞いてるこちらが うんざりするほどです(笑)。


もと・アン、今はマリラの気持ちもわかるわ~ の、
この年になって読むアンの魅力は、この辺にもあるのかも。


アンのおしゃべりにも、マリラのお小言にも、
おもわずニヤリと笑ってしまう。
どっちも経験しているから(笑)。



日曜学校のピクニック、とは言っても、
参加するのは子どもたちだけではなく、
映画やテレビなどのなかった時代、
ピクニックは 大人も子供も参加を楽しみにする、
夏の最大のイベントでした。


女学生だったモンゴメリも、
だいの仲良しの男の子と一緒に 野原を歩き回り、
彼が素敵なことを言ってくれ、
まわりの男の子たちに冷やかされたりして、
ちょっといい気分になった、楽しい夏のピクニックのことを、
日記に書き記しています060.gif





さて、アンが夢中になって食べたがるアイスクリーム🍨は
冷蔵庫のない、
作ったものを、保存しておけない当時、
作りたてをその場でいただく、
夏のフレッシュなご馳走。
大人も子供も大好きでした♡


冬の間、池や湖に厚く張った氷を切り出して、
おがくずを挟みながら、氷室に貯蔵しておき、
夏の特別なご馳走の時に、こんなふうに
貯蔵庫を持つ 農家の方から提供されて、
アイスクリームは作られます。



ローラの旦那さんとなる アルマンゾも、
少年時代に お父さんやお兄さん、手伝いの人たちを手伝って
氷切りをしています。
長ーいのこぎりの両端を 二人組になって持って氷を切るとき、
さて、どちらが氷の下にもぐって切るのか決めようぜ!
などという冗談に、アルマンゾは笑い出します。
「氷をどうやって切るか知らない連中もいるなんて、すごくこっけいだった」
ちなみに
まず、斧で穴をあけた氷のふちから、鋸をたてに水に入れて、
一人で氷を切っていきます(笑)。
『アナと雪の女王』の冒頭でもありましたね、氷切りのシーン。



9歳のアルマンゾは穴のへりで 大人たちが氷を切るのを見物していましたが、
何かのはずみで水に転落、
氷の下の暗く冷たい水の中に引き込まれるところを、
危うく助けられます。

そんなときも、父さんは心配なんてまったくしません。
むしろ、そのアルマンゾの不注意に
「目玉が飛び出すほど、鞭でたたかなけりゃならんぞ」

仁王立ちで叱り、
「もう9歳にもなるのに、ついうっかりしてばかなことをしたではすまない」
ことを、よく承知してるアルマンゾも、
鞭で打たれて当たり前だと、恐ろしさに震えながら覚悟します。



うちの10歳男子と、何たる違い!!!


農作業は男の子の仕事でしたので、
父さんはアルマンゾに 手伝いをたくさんさせますが、
失敗しても、決してフォローはしてくれません。
どんなことでも歯を食いしばって、自力で解決させながら、
アルマンゾの「一人前の男」としての自覚も、育ててゆくのです・・・





さて・・・
話はだいぶんそれてしまいましたが(笑)
アンのわくわくっぷりとマリラの冷静さを
次回はもう少し、
書いていこうと思います。








[PR]
by patofsilverbush | 2016-01-29 10:08 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

『ショウ老人の娘』

幸福というものは 
  見つけたときに取らねばならぬということ__
  その場所に印をつけておいて、
  もっと都合のよいときに取りに戻っても無駄だ、
  そのときにはもうないのだから



モンゴメリのお話には、割と頻繁に「かいしょうなし」な人が登場します。

農作業に精を出すべき時に、
景色を眺めたり、本を読んだりしていたりする人。
収穫としてもぎ取るべき林檎を、
近所の男の子が木によじ登って取るがままにさせておく人。
つまり、
現実的な豊かさ__広大な農地や、そこから得られる収入よりも、
精神の豊かさを選ぶような「変わり者」の人たち。


何を選ぶのが幸せであるのか、それはひとそれぞれ。
豊かさの意味も、ひとそれぞれであること。
『ショウ老人の娘』には、幸福に対するモンゴメリ哲学が、随所にあふれています。


「小さな事柄のなかに喜びを見出す方法を よくよく知り抜いていさえすれば、
わけなく幸福になれるのである。」

「人生をつねに虹のような空想の円屋根や 尖塔のそびえる宮殿のごとくに考えるひと」

「はつらつとした生命の喜び」・・・


「昔も今も 人生を楽しんできたし、
ほかの人たちも楽しむように 力を尽くしてきた」ショウ老人の生涯は、
村の人々が「かいしょうなしだ」と考えようと、「成功した」と
モンゴメリは書きます。






「よい学校に通わせたい」という、金持ちの親戚の申し出を受け、
三年前に都会に出した、
愛する娘ブロッサム。
妻亡き後、たったひとりで大切に、大切に育てた 娘のためを思う決断でしたが、
さびしい三年を経て、いよいよブロッサムが帰宅する日もあさってとなり、
心躍らせているショウ老人に、
近所の住むブリュエット夫人が、
心無い言葉を投げかけるのです。

一度きらびやかな、都会の生活を味わったものが、
三年前と同じ娘だと思っているの?
こんな何もないところに 帰ってきたいと、本気で思っているわけがないでしょう。と。


初めて、村の人たちと同じ目線・視点で 自分の生活を眺めることになったショウ老人は、
その貧しさ、刺激のない退屈な日々、
貧弱な家や、愚かな老いぼれな自分を、
ブロッサムが恥ずかしがるかもしれないという事実に、直面し、打ちのめされます。



このブリュエット夫人、そう!
アンを引き取らないと思い、返しに行ったマリラの代わりに、
アンを引き取ろうと言った夫人なのです。

あまり良いうわさを聞かない この夫人の手にアンを引き渡すことに、
ためらいを覚えたマリラは、アンを引き取ることに決め、
マシュウも「あんな女に渡すもんか」と 珍しく声を大きくする、
まさにアンにとってのキーマンであった、ブリュエット夫人のことを、
モンゴメリは、ショウ老人とは対照的に
「人生の失敗者」だと描写します。



お父さんが大好きであったブロッサムが、
果たして、
冷めた目で田舎を眺め、すべてを見下す
都会かぶれの娘になって帰ってくるのか、
読者としても気になるところですが
もちろん、人生に虹を見出す天才であったモンゴメリのお話ですから、
060.gif



こちらも、子供のころから大好きであった、とは言えない
(もちろん、ハッピーエンドでよかったね、という意味では 好きでしたが)
何度も読むうちに、
自分にとっての真の豊かさに思いをはせる、
美しい、
モンゴメリらしいお話しであるなぁと しみじみ味わうようになりました。


このような、「幸福」を芯におきながら、
自分の家柄や頭脳、野心に対する誇りを捨てきれずにもいた、
モンゴメリの複雑な心境にも、思いすることは、たくさんあります。



何を選ぶのか、それが果たして幸福であるのか。
頭で考える幸福と、
心が感じる幸福とでは、
かなりの食い違いがあるのではないでしょうか。










 

[PR]
by patofsilverbush | 2016-01-26 10:35 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(0)

『めいめい自分の言葉で』

一口にクリスチャンと言っても、
人間ですので、目には見えない「神様」に対する考え方は、
それはもう さまざまです。


「あの方たちの神様は 狭量で 不合理で 不公平で 方便的で
復讐心の強い 頑迷な人物です」
と、ある人の信じる神について語るのは、
ウェブスター作『あしながおじさん』のジュディ。
「あの方たちの行いのほうが、あの方たちの神様より、ずっと立派です」


孤児であるジュディは
「ありがたいことに 私は誰からも 神様を相続しませんでしたわ!」
と ユーモア交じりに、
自分の神様を こう定義します。
「親切で 思いやりがあって 想像力に富み、
罪は許してくださるし、理解があって、そのうえ、ユーモアを解する神様です」




モンゴメリが生きた時代、キリスト教の教義は、
今よりもずっと厳しいものだったと思われます。
神は 愛と許しの存在、というよりも、
正義と裁きの神として、人々の意識に植え付けられていたようです。



結婚後、牧師夫人となったモンゴメリですが、
このような狭量な「神」の定義や、キリスト教の在り方には、
常に疑問を抱いていたようです。



神は 人知を超えた、大きな愛であり、許しである。
人を裁き、自身の楽しみであるかのように、
人に罰や苦悩を お与えになるような存在ではない。


そんなモンゴメリの宗教観は、
多くの作品の中に、直接のテーマとしてではなく、
何気ない言葉の中に 読み取ることができるのですが、
もっと端的に、
作品のテーマとして 「愛と許しの神」を扱ったものが、
この
『めいめい自分の言葉で』という短編です。




主人公のフェリックス少年は、ヴァイオリニストであった父を亡くした後、
赤ん坊のころ すでに亡くなった母の、父にあたる、
牧師である祖父のもとに 引き取られました。

人の魂の奥深くを感じ取り、
その人の心を弾くように、ヴァイオリンを奏でる少年に対し、
そのような音色には 悪魔が宿ると感じた牧師は、
フェリックスに、
ヴァイオリンを弾くことを禁止してしまいます。
「その音楽にはキリストだって宿っているんだ」
と反対する人の言葉を押し切って。


一方、
村の中で、「娼婦」「悪い女」と扱われ、
誰も親しく付き合おうとしない、ナオミという女性の
臨終の床に呼ばれた牧師は、
死に際して、
“まっとうな”道を踏み外し、“罪深い”人生を歩んできた自分を
神が許してくれるはずがない
と恐怖する ナオミの心を
自分の言葉では 癒すことも 静めることができず、
深い空虚感に襲われます。



「怒りと正義と罰の神」
ナオミにとって、神とはそのようなもので、
死んでのち、そのような神に対峙する恐怖は、
地獄よりもはるかに恐ろしいものだったのです。


そんなナオミの心を救い、
「ナオミにわかる言葉で」神の深い愛と、慈しみ、赦しをわからせたのは、
フェリックスのヴァイオリンの音色でした。




実は実際に、
キリスト教で推奨されるところの「他者への奉仕」ということを、

「(牧師の誤っている点は)その奉仕ということを、
本来の意味よりも狭く考えていることだった__
すなわち、
人は人類の求めに応じ、方法はさまざまに異なっても、
同様の効果をあげる奉仕ができるということを 見落としていたのである」


とモンゴメリが書くように、
「この一つの方法しか認められない」とおっしゃる神父や信者さんも、
今でもたくさんいらっしゃいます。


もちろん宗教に限らず
「こうするべき」
「こうあるべき」
「こうでなければならない」
と、持論を押し付け、それ以外は認めず・許さずな人は、
どんな場所にもいますね。
(わたしも含め・・・反省!)




フェリックスを愛するゆえに、「正しい」道を歩ませたいと
ヴァイオリンを禁じた牧師でしたが、

その在り方は 牧師が彼に望んだ道ではなかったけれど、
それが神が定めた、
フェリックスが世界に「奉仕」できる方法なのだと、
牧師は悟るのです。



このお話、実は一番大好き!という作品ではないのですが(笑)
子どもと接しながら、
心に訴える話であるなぁと、
最近、じんわりと沁みたので、
最初にご紹介しました。



親の理想形とは異なるかもしれないけれど、
子ども一人一人に 違う表現や感じ方、個性がある。
自分の考えが、必ずしも「正しい」わけではない。
たとえ理論的に「正しい」としても。


どうしたって、日々の言葉や考え方が、
子供の成長に影響してしまうものだけれど、
少なくとも、
自分の我を、
「親」という権威をふりかざして
子どもが本来持っている性質を、ゆがめてしまいたくないと、
最近、よく思うからかもしれません。




洗礼を受ける前に、
「キリスト教について」の「勉強」はするのですが、
教義や理屈ではなくて、
神がどんな存在であるのか、
愛と喜び、希望、信頼、赦し、癒し、平穏、美、静けさ、満ちること・・・
神に関するさまざまな善を
わたしに最初に教えてくれたのは、
子供のころから親しんだ、モンゴメリの作品であったと思います。





















[PR]
by patofsilverbush | 2016-01-16 16:03 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback(2) | Comments(2)

日々のあれこれを綴ります


by anne
プロフィールを見る
画像一覧