カテゴリ:聖書( 14 )

み言葉

人が「宗教」に「走る」とき、
「あの人、なにか(つらいことや 悲しいことが)あったのかしら?」
と なんとなくちらっと頭をよぎる人も多いのかもしれません。
わたしがキリスト教の勉強を始めたときは、
息子がちょっと理解しがたい(笑)ということを除いては、もうまったく悩み事もなくて
むしろ、何か(つらいことや 悲しいことが)あったとしたら、
「宗教なんかに頼るものか!」と変な意地を張って、キリスト者にはならなかったかもしれません。
単なるすりこみですが、それほど「宗教」には、あまりよろしくないイメージを持っていました。
ただ単純に、子供の頃から読み慣れてきた外国の少女小説の影響で 
キリスト教は「よく知らないけど身近なもの」であり、
それってどんなもの?アンの中に出てくる聖書の言葉って、本当はどんな意味なの?
という興味があったにすぎなかったように思います。

シスターに一番初めにお会いした時も、
それからお勉強中にも幾度も聞いた、シスターのきっかけはこんなふう。


「あるとき、“人は死んだらもうそれで終わりなの?もう一巻の終わりなの?” という疑問がわいてきて、
たとえば(シスターのお母さまが入信していらした)神道にも、仏教にも、
自分が探している答えはないように思えた。
プロテスタントの教会へ行ったら、扉が閉まっていたけれど、
カトリックの教会へ行ったら、扉が開いていて、
聖書の中のイエス様の言葉が書かれていた。
      
       疲れたもの、重荷を背負うものはだれでもわたしのもとに来なさい。
       休ませてあげよう。
       わたしは柔和で謙遜な者だから、
       わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。
       そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
       わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである


それで、神さまの愛を感じたのよ」


初めてこの話を聞いたとき、正直言って、「なぜ、それで神さまの愛を感じたのか」
理解できませんでした。
「神様の愛を感じる瞬間」があって、人って本当に信仰するのだと思うけれど、
そういう、個々に訪れる瞬間って、本当に説明しがたい。
みんな同じじゃないし。


とても優しい、ある意味で、あまり信仰に興味がない人が考える「神様」っぽいこの言葉。
わたしも折々に繰り返して読むことも多い言葉なのですが、
最近になって、
ああ、疲れていたし、重荷を背負っていたから、
自分はあのとき、キリストに導かれていったのだな、
と自覚するようになりました。

いっけんすると、よくわからない息子のことが
けっこう心の負担だったように思われるかもしれません。
そして確かに、神さまと出会わなかったら息子を育てるのは心の負担になっていたかもしれない
と思う瞬間は、多々あるのだけれど、
実際は彼のことはまったく何の問題もなくて、
自分が背負ってきた荷物や、思考の在り方に、ただくたびれていただけなのでした。
だから息子はむしろ、わたしにとっては
神様が取り除いてくれたわたしの「重い荷物」のかわりに持たせてくれた、
「軽い荷物」であり、重い荷物をおろさせてくれた喜びでもあるのです。


本当のところ信仰って、自分が何の信仰心もないときに考えていたような
ただただ だらりとよりかかって「癒してもらう」ものでも
ただただ あなたにお任せ♡的に「頼るべきもの」でもなくて、
「わたしってこんなふうだから、誰かどうにかしてください~」というような甘えのきかない、
自分の足できちんと立って、きちんと神様と向き合うべき、
まったく別の意味での「癒し」であり「頼るべきもの」であることがわかりましたが、
このイエス様の言葉は、
本当にその通りだと、
自分でも気づかなかった心の中の「重荷」を少しづつ気づかせてもらい、
「こんなものを持っていたから重かったんだ!」とびっくりし、
「それでもなんだか捨てられない!意味もなく!」という 
わけのわからない執着を されに気づかせてもらって、
日ごとに心に染みる言葉となっております。


み言葉は生きているって、本当にその通りなのですね!












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by patofsilverbush | 2017-04-25 09:09 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

主よ、憐れみたまえ

   子供は本当に可愛いね
   神様の目にも わたしたちはこのように映っているのかしら・・・


先日受け取った、シスターからのお手紙の一文。


ばかだね、小学男児は・・・(^^;)
と思いつつ、親ばかで可愛いわが子を見るように、
わたしも見守られ、育てられ、しているのかと思う安心感。
なにしろ世話の焼ける子供であるなぁ、とは思うけれど、
わたしと違って、神さまはなんて辛抱強いのであろう!


    (うちの子も、わたしのことも)
    神さまが間違いなく育てて下さっているから安心して、
    この安心をまわりに大いに伝えないとね、
と書かれているすぐあとに、
No!
と続き

     この伝播は人為的でないよね


とありました。

きっと「伝えよう」とすると、
違ったふうに伝わる気がする。
わたしという人間の、個人的な感情が入ってしまうから。
ただ、ありのままののんきさでいればいいのだなぁと思って、
ふんわりしました。

わたしが伝えられることなんて何もないから、
空っぽでいたら、神さまが何かを注いでくださるのです。




「憐れむ」という言葉を聞くとき、
ふつう、「人に憐れまれたくない」とネガティブな気持ちを抱くことのほうが多いのかもしれないけれど、
キリスト教徒は「憐れんでください」と神に祈ります。
何もわからない、何もできないわたしを憐れんでくださいと祈る時、
初めて、
自分の傲慢さに気づくこともある。
謙虚を装っているだけで、本当は自分の心の中は 慢心でいっぱいだったんだなぁと。
ある日そのことに気づいたとき
「憐れんでください」という祈りの意味が、少しだけ、本当に少しだけ、
神さまに伝わったようにも思いました。



人為的でない伝播があって、
今、イエス様と共にいる自分がある。
わたしに神さまの愛を教えて下さったシスターのお手紙を読んで、あらためて、
伝播と、憐れむ心について思うことが、たくさんありました。








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by patofsilverbush | 2016-10-15 15:19 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

よき便り


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今朝のウォーキングで。
川沿いの藪からちょうだいしてきました(笑)。
夜空をきゅっと珠にしたような、美しい蒼です。

なんとなく、イエス様を隣に置きたくなり、
写真を撮りながら、あ、ぶどうの木、と思う。


息子の通っていたモンテッソーリの幼稚園は、
年長さんが「ぶどうの木」組でした。
プレは「そらのとり」組。
年少さんは「野の花」組。
年中さんは「まきばのひつじ」組。
いずれも聖書から引用された名前です。
見学に行ったときは もちろん聖書になんてまったく馴染みがなくて、
ただ、かわってるけど可愛いネーミングだなぁ✨と思っただけでしたけど。


イエスはぶどうの木。
つながるわたしたちは、イエス様から豊かな恵みを受けて、ぶどうの小さな実となる。
日々、頂いている恵みのなんて豊かなことか!

物質的な豊かさや 地位や 名誉や権力や・・・
誰の目にも分かりやすい恵みではないどころか、
そこに何かの「恵み」があろうとは、誰の目にもわからないような恵みもある。
時には受けているはずの自分にすら、どこに恵みが?何が恵み?と、
神さまのなさりようを疑問に思う時もある。
神さまが何を下さろうとしているのか、見当もつかずに、
ただただ苦しいときも。
目の前のわかりやすい「恵み」のようなものを、安易に選んでしまいたくなることも、
しょっちゅうです。


それでも、
迷っている時、苦しいときに「イエス様、いったいわたしはどうしたら?」
と 問いかけられることこそが、恵みであるのだなと、
思わずにはいられません。

受け取るものの大きさに気づくときの、震えるような驚きや幸福とはまた違う、
いつも共にいてくださるのだという、神さまの愛に気づくことが。


あ、きれいな実がついている!秋だわ~!
と摘み草をした時には、まったくそんなことは思わなかったけれど、
家に帰ってきてから、
なんとなくそんなことを思う、
それもまた、今朝のお恵みであったのです。
福音。

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by patofsilverbush | 2016-10-14 09:57 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

み言葉と心と

モンゴメリの物語には、聖書の言葉がたくさん引用されています。
モンゴメリだけではなく、欧米の文学には、
聖書から引用された言葉が随所に散りばめられていますが、
アンや、『若草物語』など、
子供の頃から親しんできた物語の中の聖句が、
実際に聖書のどこに書かれているのか、
知りたくて買った聖書は、
やがて、シスターとの時間を重ねて、
書き込みやラインのひかれた、手に馴染む一冊となってゆきました。


映画やドラマなどにも 引用される聖句。
知らなくても、ストーリーを追ううえで なんら支障はありませんが、
知っていると、
ときにくすっと笑えたり、
ちょっとした一言の持つ 深い意味に、より物語の持つ魅力が増したりもする。
「聖書は 日常なのよ」
と、息子の幼稚園の先生がおっしゃるのを初めて聞いた時には、
「え、この分厚い、細かい字がいっぱい書いてあるものを、
何度も読むの!?どこが日常???」
と思いましたが(笑)、
「福音」は「神様からのよき便り」の意味どおり、
本当に わたしの日常の心によりそってくれる、羅針盤のような本なのでした。



けれどこの羅針盤、
ウォーカー探検隊や アマゾン海賊が使うコンパスのように、
北なら北、南なら南、
と 誰にでも間違いようがなく、同じ道を指示してくれるものではありません。
人間によって書かれた言葉の、その向こうにある 神のみ心を、
人間の小さな器で 推し量らなければならないからです。



同じ言葉を読んでも、
時に素通りし、時にはっと何かを気づかされ、
また、その気づきが、自分の浅い理解でしかなかったと知る日も来る。
言葉通りに受けとれば、
それは自分の心の限界を決め、
他者にもその限界を押し付ける、
より狭量な思いへと、自分を閉じ込めてしまうことにもなりかねない。
まったく、手探りのようでもあり、
けれど「ああ!これだ!」と はっきり主のみ心をダイレクトに感じることもある、
静かに
神と、自分に対峙してながめるコンパスなのです。


初めに言(ことば)があった。
言(ことば)は神と共にあった。
言は神であった。
     ヨハネ1



表面にあらわれる言葉の奥にある、
思いの深さや大きさ。
慈愛、寛容、叡智、共感・・・
自分の心に浮かぶさまざまな感情を ぴったり言い表す言葉、
相対する人の さまざまな心に、ぴたりと寄り添う言葉すら、
わたしは知りえません。
主のみ心は、言葉を通して、
その言葉を超えて、
人の心にぴたりと寄り添い、
共に歌い、共に泣いてくださるのですから、不思議です。

表面にあらわれるもの。
わかりやすく、そのまま受け取って すましてしまいがちですが、
やはり相手の心を受け取ろうと思えば、
自分も心を澄ませていなければ、
言葉の奥の、あるいは、言葉にできない心の奥底にある気持ちは、
伝わらないものだと、
聖書を開くたびに、
つくづく言葉と心の繊細さについて、考え込んでしまいます。


こんなふうに、ブログに書くのも、とてもとても難しい!!(笑)


さて、
初めて買った聖書には、抜けている個所もあり、
洗礼を受ける際、神父様に「続編つきのを買いなさい」と言われてもいたことから、
数か月前にようやく、新しく買った聖書。
まっさらで、読みにくいことこのうえなし、
ついつい、手ずれのしたほうを手に取ってしまうので、
あいもかわらず まっさらなまま、放置してありましたが、
なんとなく、
今、こちらに移行するタイミングであるのかなぁと ふと感じました。

読みながら、またラインをひき、
いずれ手に馴染む一冊になってゆくのを楽しみに、
(ということは、毎日の心を追うことでもありますね!)
とりあえず、前回と同様、モンゴメリ文学の引用文にラインをひきつつ、
聖書のガイドになってもらおうと思います(笑)。


















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by patofsilverbush | 2016-07-22 10:02 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

働き方の品格

「たとえ家事雑用であっても、
働き方には やはり品格がある」

と随想に書かれているのは、幸田文さんです。


書き出しは、

「おこると働くのである、私は」


ああ、わかるなぁ・・・
と苦笑してしまいますが、
同じく 苦笑してしまう方も多いのでは(笑)?

アンに腹を立てたマリラも、猛烈な勢いで、
しなくてもいい家事まで していますものね。

怒っているときほど、てきぱきと動けたりして。

とは思ってみるものの、
それは てきぱきではなく、乱暴なだけだったりすることに、
心を落ち着ければ気がつくのです。


「貧乏してから働くこともある。
催促されてやっと働くこともある。
誰もがしり込みをすると、英雄みたいな気持ちになって、
一種の悲壮感が漂って働くこともある。
恋をすると働き者になることもある。
胃がいっぱいすぎるとやむなく働き、
天気がいいというだけのことで、
ひたすら邪気なく美しく働くこともある」


そう、最後の一文は、
今日のお天気のように!

わけもなく楽しくて、
ことさら丁寧にお皿を洗ったり、
洗濯物のしわをしっかり伸ばしてみたり、
お天気のいいうちに、
布団も干して、買い物に行って、
ああ、買い置きしていた端切れも、水通ししておこう、
きのう着たセーターも、手洗いしてしまおう、
などなど、
ふだんはぐずぐず おざなりになってしまうようなことまで、
うきうきと休む間もなく家事をしていたり(笑)。


丁寧に暮らすことは、
品よく暮らすことでもあるのかもしれない、とも
ふと思いました。


やわらかな仕草や表情で過ごすこと。
大きな音を立てないこと。
は、
ものを丁寧に扱うことにもつながります。


いつもいつも そうであるのは、
なかなかに難しいのだけれど、
せめてお天気のいい今日だけは、
あるいは、
何事もなく平穏な今日だけは、
と理由を見つけては、
品よく家事雑事をしていたいものです。





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by patofsilverbush | 2015-11-06 14:17 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

共にいてくださる

今朝、何気なく聖書をひらいたら、
イザヤのある個所が目に留まりました。

といっても、
いつのことかは もうすでに記憶にない
ある日のわたしが、
マーカーで印をつけた個所だったので、
目に入った、ということも、あるのですが。


あなたはわたしのしもべ
わたしはあなたを選び 決して見捨てない。
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。    
                    イザヤ41-9・10




同じ方向を向いてはいても、
神様に向かう道は、たくさんあると思うのです。


まっすぐな道。
曲がりくねった道。
途方もない遠回りの道。

ときどき、迷子になってしまったように感じたり、
歩き疲れて 道端にしゃがみこんでみたり。
途中で出会った人と親しく言葉を交わすこともあれば、
選ぶ道がわかれてしまうこともある。


いろいろなのですが、
それぞれの人が、主の御心に従うことを心にとめて、
自分で決めることなのだと思うのです。


まっすぐな道じゃなくても、
その寄り道には、
本人にしかわからない、大切な意味があるのでしょう。
苦しかったり つらかったりして立ち止まっても、
主はご一緒に立ち止まっていてくださる。
ご一緒に泣いてくださる。

アドヴァイスを押し付けることもなければ、
見捨てることもなさいません。



特別なハプニングがあって、心にわだかまっていることがあると
意識していたわけではなかったけれど、

このところ ぼんやりと心の底にあった
疑問というか、
不安というか、
なにか自分でもはっきりしない感情に、
ちょっと触れたような気がしました。













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by patofsilverbush | 2015-11-05 09:22 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

聖書朗読

毎週のミサの中で、
その日の祈りのテーマに沿った聖書の個所を、
信者の方が朗読します。

わたしも、お当番で順番がまわってきたり、
当日、頼まれれば はいとお返事して読ませていただくこともあります。

お当番で、読ませていただく日がわかっているときには、
事前に朗読個所を教えて下さるので、
家で一度、
その個所だけではなく、前後も読みながら、
その個所の何を、どこを、こころに留めるべきなのか、
神さまのどんな思いが そこに込められているのか、
考えながら、練習してみます。

当日 頼まれたときは、
その個所だけ、とりあえず目を通し、
ミサの始まるまで ぶつぶつと一人で音読してみたり。

やっぱり壇上に上がって、みなさんの前で読むのは、緊張しますから。


ある日、朗読を頼まれた個所は、
創世記の中の一節でした。


神さまが七日かけて、世界をお作りになる、
聖書の冒頭部分が 創世記。
その中で、
ご自分の姿に似せてお作りになった人間、アダムとエバ(イブ)が、
神さまに唯一、食べることを禁じれていた知恵の木の実を、
蛇にそそのかされ、口にしてしまい、
楽園であるエデンを追い出される・・・というお話は、
クリスチャンではなくても聞いたことのある方も、たくさんいらっしゃるかもしれません。

言い訳をするアダムとエバに向かい、
主は 言われました。


   「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
    お前は苦しんで子を産む。」
   
   「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。  
    お前に対して、
    土は イバラとあざみを生えいでさせる 
           野の草を食べようとするおまえに。
    お前は顔に汗を流してパンを得る
           土にかえるときまで。
      塵にすぎないお前は 塵に返る」



それまで、自分たちを作って下さった神さまに、
なにひとつ隠すことなく、あけっぴろげな信頼と尊敬、愛情をよせていたアダムとエバが、
知恵の木の実を食べたとたんに、
自分たちが裸でいるという羞恥心から、神の目を避けて
物陰にかくれたのでした。


わたしはずっと、神さまのこの言葉は、
信頼を裏切った2人への怒りであると思っていたのですが、

いざ、読んでみる段になって、

ああ、怒りではなく、
悲しみだ

と感じました。

エデンの園は、きっと 特別美しく作られた、
いわば神さまのプライベート庭園みたいなものだったでしょう。

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聴こえてきた」
とありますから、ご自分が作られた 世界を見て歩かれた神さまは、
嬉しい気持ちで、
いとおしんで作った「人間」のいる園に、足を運ばれたのではないでしょうか。
わたしたちが、家族の待つ家へ、帰る時のような気持ちで。

そこで、喜び迎えてくれるはずの2人が、
自分の言いつけに背き、
信頼を裏切り、
身を隠しているさまを見つけられた時の 主のお気持ち。


愛する者を、ご自分の庇護のもとから、
苦しみや危険も多い外の世界へ旅立たせなくてはならなくなった、
神さまのお気持ちは、
きっと 怒りより、悲しみの方が深かったように思えたのです。


わたしも、同じような気持ちを 息子に抱いたことがありますから。


「悪いことをすると、天罰が下る」なんて よく言いますが、
神さまは 罰を与えようとして 見張っているわけではありません。
むしろ、信頼して任せて下さっているものだし、
もし、そのご信頼を裏切ってしまったとしても、
そしてその結果、自分のしたことが自分に返ってきて、
わたしたちが困ったはめに陥るのを見れば、
怒り、罰を与える というより、
悲しく思い、
愚かしいわたしたちを 憐れんで下さるのではないかと思うのです。


日々、いろいろなことを経験し、
いろいろな感情を抱き、
はじめて思い至るものがありますね。
その朗読個所が、わたしに与えられたことも神さまからのメッセージです。

与えられることのすべてが、神さまからのメッセージなのですね。










    



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by patofsilverbush | 2015-05-13 14:01 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

聖金曜日

主のご復活、イースターを明後日に控え、
今日は聖金曜日。
イエスが十字架につけられた、ご受難の日です。

聖書のその個所を読むと、胸が痛くなるし、
イエスがわたしたちのために払われた「命」という犠牲を思い、
「わたしたちも 犠牲を捧げるように」
と 教会でも言われます。

教会に行き始めたころは、
主がわたし(たち)のために捧げてくれた、大きなものを思い、
犠牲を捧げるのがクリスチャンの務め、というようなイメージを抱きましたが、

洗礼を受けてからこのかた、
実はあまりそんなふうに、この時期を(いや、いつもか)
過ごしたことは、ありません。



神さまがわたしたちに求めているのは、
犠牲を捧げることではなく、
日々を 楽しく過ごすことではないかと思うからです。


一般に「楽しい生活」という言葉から連想される生活とは、
もしかしたら 少し違うかもしれませんが、


日々、自分に与えられることに感謝し、満ち足りた気持ちで過ごすこと。
神さまがわたしに求めておられることが なんであるのか、
知るための、または そのようになれるための 努力を惜しまないこと。
どんなことが起ころうとも、その中に光を見出せるように、
つまり、
神さまの方を向いて生きていくこと。

その中で、「犠牲を払う」ように思える出来事があったとしても、
それを「犠牲」だとは、感じないのじゃなかしら。
だから わざわざ「犠牲を払いなさい」というのは、なんだかちょっと違うような気がする・・・
と 思ったりして。



これは神さまのご意思?それとも、わたしの勝手な解釈?
と 思い悩むことはしょっちゅうですし、
神さまの目線で物事を見るなんて、とうていできず、
不満もいっぱい、
神さまのご意思であると思われることが、あまりに自分の気持ちとかけ離れていて、
ぐるぐると煩悶してしまう日常です。

神さまよりも、人の意に沿って生活している方が 楽だと思うこともあるし、
(神さまは赦して下さいますが、人は なかなか許さない生き物ですから)
神さまの方を、いつも向いて生きるのは、
一口に、単純に「癒し」とは言えないようなことでもあります。

それでも癒しであるのは、
神さまが 大きな愛で包んでいて下さるから。
神さまの愛の中にいることを 幸せと感じるからこそ、
「(この)世」でない、もっと大きな世界の中に生きようと、思えるのです。

『 誰かのためにはらうのは 犠牲ではなく、
わたし(主)の愛を あなたのまわりに伝えなさい 』
と、いうことではないのかな。


他の誰か、ではなく、
この「わたし」、神さまがお作り下さった「わたし」に、
神さまは 何を、どう生きることを、望んでおられるのか。


「わたし」にできることは、ほんのわずかです。
でもこの数日、少しだけ、わかりかけたこともあります。


   いつも喜んでいなさい。
   絶えず祈りなさい。
   どんなことにも感謝しなさい。
          (テサロニケ1 5-16~18)


聖書のなかの、大好きな句です。




















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by patofsilverbush | 2015-04-03 10:31 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

来(きた)るべき都

きのう、聖書を読んでいたら、
今まで気づかなかった こんな一文に目がとまりました。

  わたしたちは この地上に永続する都を持っておらず、
  来(きた)るべき都を 探し求めているのです
                        ヘブライ人への手紙 13-14

先日書いた、“わたしの祖国” のようですね。



フランスでの 新聞社襲撃事件を受けて
フランスや、隣国のドイツでも、
一部の方によるイスラムへの 圧迫、排斥運動があるようですが、
大多数の方は、
その運動に反対されているようです。

民族、文化、宗教、価値観の多様性。
誰でもが自由であり、
他者を認め、敬意を払う許容性をもつ世界。


人種も 性別も 宗教も関係なく、
わたしたちは 同じ地球に住む、ひとつの種族なのです。
表面上の違いはあっても、きっと
たいした違いはない。


排斥や弾圧からは 悲劇しか生まれないと、
わたしたちは学んだはずではなかったかと思うのです。


冒頭の聖書の言葉の、前の部分は、
こんなふうです。

    イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、
    門の外で苦難に遭われたのです。
    だから わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、
    宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。



自分の内側、自分だけの価値観の中に閉じこもっていては、
他者への理解はうまれません。

外へ出る、
自分と 他者の違いを知ることは、
時に恐ろしく、時に苦しいこともあるかもしれませんが、
 
「来るべき都」は、過去の中にはないということ、
誰もが忘れてはいけないことだと思います。


宗教の問題は、日本人にはあまりピンと来ず、
「よく分からない」という言葉で 対岸の火事のように傍観してしまいがちですが、
世界はつながっている。
地球の反対側で起こっていることは、
けっして日本にも無関係ではないということを、
過去から学びたい。












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by patofsilverbush | 2015-01-15 09:02 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

どっちがいいかな

聖書に、ザアカイという人が登場します。
徴税人という、
ローマ帝国に支配され、苦しい生活を送っている同胞のユダヤ人から税金をとりたてつつ、
ついでに私腹を肥やしていた 嫌われ者で、「罪深い」人です。

そのザアカイさん、あちこちで病人を癒す不思議なわざをおこなっていて大評判のイエスさまが
近くを通りかかったもので、
「どんな人か見よう」としますが、大勢の人が周りを取り巻いていて見えません。
そこで先回りをして、少し先の木まで走って行き、よじのぼりました。

大人なのに、おもしろいですよね。息子も好きで、
「ああ、ザアカイさんね!」 とまるで知り合いの話をするかのように、覚えています。

さて、木のそばを通りかかったイエス様は、ザアカイさんを見上げて、
降りてきなさい と声をかけました。
「今夜はあなたのうちに泊まりたいから」

そばにいた人は、あんな罪深い男のところに泊まるなんて 
と(たぶん)眉をひそめて言い合いましたが、
ザアカイさんは喜んでイエス様を自宅へと案内し、
      
        「わたしは財産の半分を貧しい人に施します。
        また、誰かから何かをだまし取っていたら、4倍にして返します」 (ルカ19章)

と言いました。

日々の自分の行いを省みて、もっと心清らかに生きていきたい
と感じていたのでしょうね。
こうしたいなぁ、
と漠然と考えていることがあっても、なかなか実行に移せなかったりすることがよくありますが、
そのことを心にとどめておくと、いつか善い機会が訪れるものです。
イエス様はその機会を、ザアカイさんに下さったのです。
それはイエス様が折に触れて言われるように、
「わたしが救ったのではない。
あなたの信仰が、あなたを救ったのだ」ということなのでしょう。

何かを求める心を持ち続ければ、必ず善いことがおこる。
そのことを信じなさい。


この個所を読んだ時に、シスターが、
「よかったわね~。きっと家族も喜んだでしょう」とおっしゃったのですが、その後、

「だいたい、家族はいたのかしらね?」
「それに、奥さんが喜んだかはわからないですよ。
“あなた、急になんてことを言い出すのっ!?”と怒ったかもしれない」


なんて話になり、シスター大爆笑でした。

だって昔話には、そんなパターンが多くないですか?
意地悪じいさんには、もっとよくばりな意地悪ばあさんがくっついていること。

やっぱり聖書は日常生活。
「けちんぼの奥さんがいるのと、
まったく孤独な独り者、
どっちの方がいいか、パパに聞いておいて」とシスターがおっしゃるので、
パートナー氏に聞いてみたところ、
「うーん・・・一人の方がましかなぁ」という答え。

みなさんはいかがですか?
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by patofsilverbush | 2014-06-26 09:43 | 聖書 | Trackback | Comments(0)

日々のあれこれを綴ります


by anne
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