カテゴリ:心( 141 )

手をつなぐ

今朝、教会へ行ったところ、
駐車場から教会までのアプローチで 顔見知りでスペイン人のシスターと
ちょうど同じ時間に行き会いました。
お勉強を見ていただいていた日本人のシスターが 修道院を移動になられてから、
抱えている気持ちをお話しできることが、なかなかできなくなってしまったのですが、
修道院に出入りしていてお顔見知りで会ったことから
息子のことから端を発した、わたしの両親をめぐるいろんな思いを、
一番気持ちが高ぶっていた時に、話を聞いていただいたシスターです。

いつも私の顔を見ると
「元気?あなたが元気だと嬉しいわ」と声をかけて下さるのですが、
寒かった今朝は、おはようございますのあいさつの後、
わたしの手を取って
「あら!あなたの手、あたたかいね!わたしはいつもは暖かいけれど、今朝は冷たいのよ」
と。
そのまま手をつないで教会まで歩きながら、
「元気?あなたが元気だとうれしいよ」と、いつものお言葉。

息子とはお恥ずかしながら、まだ手をつないで歩いていますが^^;
お友達と手をつないで歩くことは、この年ではなかなかないことですよね。
すご~く仲良しみたいに手をつないで歩きながら、
最近の気持ちをお話したら、
「よかった!神に感謝ね!神様は働いてるね!」
と言って下さいました。

もちろん、いつも「神に感謝」!
そして 信仰の入り口で、はなはだ頼りなくうろうろしている私を、
いつもそっと、押し付けがましくなく、見守ってくださるシスター方に感謝!

つないだ手が、子どもみたいに嬉しい朝でした。








[PR]
by patofsilverbush | 2017-11-17 15:12 | | Trackback | Comments(0)

羅針盤

子供の成長を見ていると、
すくすく、という言葉が表すように、
やっぱり空(上)に向かって伸びてゆく印象がありますよね。
伸びるスピードはもちろんまちまちで、
「お、急成長!?」と思う瞬間もあれば(親比・笑)、
「なんだかいつまでもバブちゃんだよ(←かわいくほほえましい)・・・」と思うこともあるし
「おいおい・・・」と怒り心頭の日も、まあ、よくありますが^^;
いずれにしても、
ゆっくりでも、芽を出して、葉が開いて、つるの先を伸ばしてゆこうとするエネルギーがある。


一方、大人の成長を思うとき、
私の場合、そのイメージは
上へ向かう、上昇志向というより、
深く、広く、
というイメージです。
高く伸びあがるのではなくて、
ある知識や思考、感情を より深めてゆく。
空高く羽ばたくよりも、遠くまで飛んでゆくようでありたい、と。
前後左右、上も下も無限に広くて、
目指す場所ははるか遠くにある。
鳥のように羽ばたいてゆくときもあるし、
「丘を越えて はるかかなたへ」と歩いてゆくようでもある。



それはきっと個人的なイメージで、
ひとそれぞれ、自分のいる場所、生き方の指針を示すイメージは異なるものですよね。
自分がいる場所について、それはどんなところなのか、
目指す方向があるのならば、どんな場所にむかっていこうとしているのか、
漠然としたイメージででも 心の中に持っていると、
それが日々の羅針盤になるように思います。








[PR]
by patofsilverbush | 2017-10-25 08:44 | | Trackback | Comments(0)

その人らしさ

先日、長野へ行ったとき、
新幹線に乗る前に駅の構内で 手土産の芋ようかんを買い求めました。
舟和の芋ようかんとあんこ玉、息子もわたしも母も好きなのですが、
祖母に会いに行った際、
「おばあちゃんも、やわらかいから食べられるかな」と思い、
少しだけ持って行ってみました。

すっかり食が細くなっているようでしたが、
「食べてみようかしら」と言うので、
フォークで小さく小さくした一口を 口に入れたところ、
「芋ようかんは、昔っから好きじゃなかったのよ、甘ったるくて」と一言。

わぁ、久々に聞きました、おばあちゃん節!


これまた昔っから、祖母はそんな人でしたので、
そんなこと言われたくらいじゃなんとも思わないのですが(苦笑)
いい意味でも、悪い意味でも、「その人らしい」ことってあるんだなぁと思った次第です。





[PR]
by patofsilverbush | 2017-10-24 14:14 | | Trackback | Comments(0)

自分の意見を持つ

もともと、政治などまったく興味なかったわたしが、
まがりなりにも「台風がくるらしいから期日前投票してこよう!」なんて思うようになったのは、
受洗前にも、受洗後にも、
お勉強を教えていただいていたシスターのおかげです。
受洗前には「キリスト教とはなんぞや」を教えていただきましたが、
受洗してからも、聖書を読みつつ日々のあれやこれやを「わかちあう」時間を
継続して作っていただいていました。
聖書やキリストに関わらず、なんでも話題になるわたしたちの会話の中には
子育てや死、子供の頃の思い出、などなどが散りばめられ、
政治の話はそのひとつでもありました。

といっても、
シスターに教わったのは政治についてではなくて(笑)
知らないですましていることや、自分の意見がないということは、
それについて会話すらできない、
ということです。


興味をもって、ニュースを見ること
わからない、なりに、今起きていることについて、自分の考えを持つこと。
詳しく知りたければインターネットというものもある時代です。
物事について、
とにかく自分なりの意見を持つことの大切さを、わたしはシスターに教わりました。
あたりまえみたいなことだけれど、
自分に興味のないジャンルに関して、
人って「わからないから」という言い訳のもとに、
無知のままでいることが多いんじゃないかな。

ファウストじゃないけれど、この世の「すべて」を知ることはむずかしい。
けれど、
せめて自分の身の回りで起きていること、
自分に関係のあることくらいは、
自分の意見を持っていたい、と思うようになった。


民主国家といわれる日本だけれど、
上から与えられたものを「はい」と受け取るだけの国民性。
富国強兵・軍国主義も、
民主主義も、
自分たちで主張し、勝ち取ったことは、歴史上ないのではないでしょうか。
それが果たして、真の民主主義といえるのか・・・。


誰か、上に立つ人がどうにかしてくれる、
と思うのはやめて、まずは自分の意見を持つこと。
(そのためには、対象を「知ろう」とすること)
政治についても子育てについても、そして「自分」というものを知る上でも、
それが何より大切なことだと思うようになりました。
今だって、政治に詳しくなったわけではないけれど、
とりあえず、意見はもってる!ってことが、きっと大事!




[PR]
by patofsilverbush | 2017-10-20 16:00 | | Trackback | Comments(0)

赤いリップ

廊下から居室へ顔をのぞかせたとき、
わたしの顔を見たとたん、涙を隠すために毛布に顔を隠した祖母は、
わたしのつけていた赤いリップに涙したのではないかと思うのです。

「やっぱり若い人は、赤い口紅つけてるのね」
寝ていた枕元に近寄ったとき、
そう言って私の顔を見つめたから。

グループホームで入居しているのは ご高齢の方ばかり、
介護士さんや調理師さんはいるものの、
もしかしたら華やかな色彩はあまりないものだったかもしれないし、
その赤いリップや、
着ていた紅葉のような茶オレンジ色のニットは、
祖母の目に、とても華やかに映ったのかもしれません。
そしてそれは、
ずっと東京で暮らしていた祖母が、
「こんな田舎」へ「連れてこられて」失くしてしまったと思っている、
若さや、なんでも自分でできる身体や、お買い物の楽しみなんかを
思い出させたのかもしれません。


毎日ご飯が食べられること、
誰かのためにちょっとしたことをしてあげられること
誰かが自分のために、何かしてくれること。
お天気がいいことや、いっぱいのお茶がしみじみ美味しいこと。
季節がうつろうこと。
幸せに生きることはとても簡単なことですが、
祖母にとっては「幸せ」な気持ちはもう、どこにあるかさえわからないみたい。
それは認知のせいではなくて、
いつも誇りであった若々しい外見が、高齢のせいで失われたと思っていること、
東京でない場所に住まざるを得ないことや
華やかな場所へお出かけすることのかなわない状況が、
ただただ許せなく、不幸なのだと思います。
そして「自分は不幸なのだ」と思っていたいのだと思います。


ハピネスは自分の心からしか生まれないので、
祖母が不幸を嘆いても、誰もなにもしてあげられない。
魔法使いではないので若返らせることはできないし、
どこかへ連れて行ってげることはできても、楽しいと思うかどうかは
祖母次第。
そして周りの人が何を「してあげ」ても、
祖母が楽しい、ありがとうと思うことはないのでした。
それが彼女が幸せでないことの、一番の理由なんじゃないかな。


祖母とはいえ、子供の頃から孫をかわいがるタイプの人ではなかったので、
わたしにとっては便宜上「おばあちゃん」とは呼んでいるものの、
だいぶん心の距離の遠い人です。
わたしが行くことで、喜ぶかどうかもよくわかりませんでしたが、
たぶん、喜んでくれたようなのでよかったと思います。
何もしてあげられませんが、
あかるい気分になってもらいたくて、意識してつけた赤いリップや明るい色の服が、
もしかしたらおもてなしになったかもしれません。






[PR]
by patofsilverbush | 2017-10-13 15:17 | | Trackback | Comments(0)

世界は人間だけではできていない

夏日の暑い日があるかと思ったら、
朝晩 ぐっと冷えてきましたね。
キンモクセイの香りがしなくなった・・・と思っていたら、
きのう、ふっと花をかすめるかすかな香り。
我が家のキンモクセイはよそ様より一足遅れて、今、咲き初めたのでした。
ほんの少し長く、よい香りを世界に振りまいてくれる。
遅咲きにもよいところがあります💛

小学生の喧嘩みたいな口ぜりあいを続けるトップとか、
右寄りな方たちの政権争いとか、
うっかりふつふつと怒りを沸かせてしまいそうなニュースばかりですので、
日常のハッピーを、いつもより意識してたくさん掬い上げていたいと思う。
この世は、
大きな声を出す、ちっぽけな権力を欲しがる「強い」人のモノではないのですから。





[PR]
by patofsilverbush | 2017-10-06 09:09 | | Trackback | Comments(0)

主のみ心を行うこと

午前中は教会にて、シスターの主催するお勉強会があるはずだったのですが、
今朝の大雨。
家を出る頃にはほぼやんでいたのですが、
教会に着いてみると中止です、ということが判明しました。

帰りかけたところ、たまたま神父さまが玄関からお顔を出されましたので、
思い切って、
日ごろ悩んでいることについて、
お話を聞いていただくことができました。なんという主の思し召し!


教会というところは、
神様に祈る場所であると同時に、「共同体」という組織でもあります。
子どものPTA活動などもそうですが、
組織である以上、がっつり役割をもって参加した方が、
知り合いもでき、やることもでき、活動していくうえでのやりがいにもなる、
という面があります。

ただ、すべての人が、そこに「がっつり」取り組めるかというと、
そこには個々にそれぞれの事情があるわけで。


教会というのは、別に善人の集まりではありません。
まだ洗礼を受ける前には、「閉鎖的だなあ」と感じたこともありますし、
洗礼を受けてからも、オープンマインドの人は少ないように感じるのも事実です。
教会に行く・行かないで信仰の度合いを測るような風潮も、なくはないですし、
信仰があることをアピールするために、役職に積極的についたほうがいい、
という善意のアドバイスをいただくこともあります。

わたしは神さまに相談した結果、
今はとにかく、子供のことに専念しよう!と決めていますので、
正直言ってミサに与れることも、ままならないのが現状ですが、
その気持ちを汲んでくださる方と、
とにかく教会に来るように!教会は癒しを求めるためだけに来る場ではないよと、
善意の厳しいアドバイスを下さる方とおり、
その善意を否定せずに、
けれど「主がわたしに求めていることは、今はこれなのです」といちいち説明もできず、
ちょっと閉塞感を感じていました。

「教会に行く」ことや「教会で奉仕活動する」ことで、
信仰が測れるとも思わないし、
教会に行かなければ、神さまと会えないとも思っていない、
むしろ、教会の外の、それぞれの場所で
どうクリスチャンとして生きていくのか、ということが大切では???
でもそれって、わたしの言い訳に過ぎないのかな??
という疑問に、
神父様は
「教会のことはできる人がやればいいのだから、
言い方を考えつつ、断ればいいんじゃない?」とあっさり(笑)。
「信仰は生き方ということだから、教会で何をする・しないについて、
別に引け目を感じる必要はないですよ」と。


神父様のお墨付きをいただきました!というわけでは、けっしてありませんが、
ほっと気が楽になりました。


信仰というのは本当にバランスで、
個と団体、とか、
受け入れることと 主体性をもって取り組むこと、とか
忍耐することと 変化しようと決断すること、とか
「主がこうおっしゃっている」と信じることと 
「でもそれは、人間としてのわたしの個人的な感情ではないのか?」と疑問を常にいだくことetc.
いつもバランスを取れるように、
なにかに傾いてしまわないような
自己の規律が必要です。

そしてそれとは別に、
個人として神様からいただいている
課題みたいなものに取り組んでいくことは、
誰に対してもナイスな人間でいようと思うことなく、
強い意志をもって!取り組まねば、と
教会うんぬんではない厳しさも、あらためて心した、
ありがたい朝でした。

本当は、誰に対してもナイスであることと、
神様のご意思に従うことは両立可能であるとは思っています。
ただ、お互いへの敬意がなければ、無理だとも思っています。
相互関係は、一方的な思いだけでは解決しないのが難しいところですね。





[PR]
by patofsilverbush | 2017-09-28 14:12 | | Trackback | Comments(0)

頑な

ある絶対的な価値観や、それに伴う義務や行動を、
「同じ価値観を持つものなら、おこなってしかるべき」と強要する、
そんなできごとにぶつかると本当に疲れます。

いろんな事情のある人がいて、
その「行ってしかるべき」義務や行為が、できない人もいる、
一時的にできない理由がある人も、いると思うのだけれど、
強要する人にとっては、
「できない理由」は「できないいいわけ」にしか過ぎないのですよね。
できないいいわけをして、甘えているだけだと思っているし、
誰かが何かしてくれるのを、待っているだけだと思っている。
自分に都合のいいことだけを、期待しているだけだと思っている。
相手の中に深い思想があるなんて考えもせずに、
反省や熟考をうながす人。

自分にはわからない、あるいはいっそ、
他の誰にも分からない、
その人だけの事情を理解しようとせずに。


もちろん、言い訳の時だってあるかもしれないけれど、
言い訳してでもしたくない理由が、またあるのかもしれないし。


結局のところ、「同じ価値観をもっている」というたてまえのもとに、
自分の価値観を上乗せして、できない人を責めているだけでは・・・??
という気持ちがぬぐえません。
きちんとしていて、まじめで、理知的な人に多いような。
義務を遂行する決意に満ち満ちている。


今日は、そんなふうな壁を感じて、ちょっと疲れた一日でした。









[PR]
by patofsilverbush | 2017-09-21 15:55 | | Trackback | Comments(0)

AかB

むかし、知人が主催する自己啓発セミナーのようなものに行ったとき、
トップセールスを誇る営業の女性が
「やるか、やらないかです!やればわたしのようになれますよ」
と言ったのをきいて、
「やらない」を選択したワタクシですが、

AかB、どちらか選ぶ、
ということは、すごく苦手です。
やるか、やらないかと似ているようであるけれど、ずっとむずかしく感じます。


結果的にどちらのほうがベストであるのかわからない、
先が見えない道を選ぶこと。
決めかねて2か月ほど、どうしようかなぁと頭の片隅においてあることがあります。


どちらを選んでも、
神様がよきように導いてくださるのだと、今、キーボードをたたきながら思いました。

選択することは、重大なようでありながら、
実はほんの些細なことなのかもしれない。
選択したことにどのように取り組むのか、のほうが、きっとずっと大切なことなのです。
どちらを選んでも、
その人が取り組んだようになってゆくのだし、
神様はその人にとってよい恵みを、惜しみなく下さるのだから。

決定しなければならない期限まで、まだもうちょっとあるので、
それまでによく考え、かつ祈りたいと思います。








[PR]
by patofsilverbush | 2017-09-13 12:59 | | Trackback | Comments(0)

さみしい

「ママはさみしいことなんて、ないでしょ」と息子が。
え!そんな情緒欠損症みたいに言われても!
「そんなことないよ」と言ってみましたが、
「じゃあ、どんなとき?」と聞かれると・・・ねぇ。
「そうだねぇ、淋しくないね」
そんなある朝の会話。

たぶん息子が言っているのは、「ひとりでいる時間」のことだと思うのです。
自分が学校に行っている時間、
私だけが留守番で、パパとおばあちゃんちに行っている時。
ひとりで淋しくない?と。
一人でいる時間を淋しいと思ったことは、たしかにないのです。
わたしを大切に思ってくれる人が、いつもそばにいるからこそ、
わたしは一人の時間を思い切り満喫できるのです。
ありがたいことです。


けれどそれだけでもなく、
わたしは、「わたし」という人が、一緒にいる人として好きなんだとも思います。
風も草花も木もいますし、そもそも「人といる」時間と同じくらい、
「一人でいる時間」も好きなのです。
だからそういう意味ではちっともさみしくないけれど、
だからって、
まったく淋しいと思わないわけでもない。
「それはこんな時」と、ちょっとやそっとでは説明できない、個人的な事柄であるのです。


号泣するほどさみしいときもあるし、
じんわりした淋しさを抱えて過ごす日もある。
誰かに説明するために費やす、膨大な時間や言葉や術を、わたしは持ちません。
個人が抱えるさびさしって、そんなものではないでしょうか。
「わかる~」という共感らしき薄っぺらな言葉で片づけられてしまうには
あまりに心の深くにある、個人的な、尊いもの。
自分のわがままさや、かってな思い込みや偏見も含めた、ありのままの感情を、
理解してもらえるように説明できるとは とうてい思えないし、
そう思ってしまうことが、そもそも「さみしい」人間なのかもしれません。


けれどもここ数年、
さみしさのあまり号泣しようとも、混乱しようとも、
いつもそばいいてくださる方の存在を、
わたしは忘れたことはありません。
神様だけは、わがまま、思い込み、偏見、自分勝手さ、あやまち・・・
あらゆる「ネガティブ」に思える感情を内包した、わたしのさみしさを、
すべて理解し、ふかく共感してくださる。
そばにいてくださる。
共に泣き、共に笑って下さる方だからです。


信仰を持たなかった頃の自分がこれを聞いても、
そんなことは信じられなかったのだけれど、
それを信じられるようになってから、
どんなにさみしくても、死ぬほどつらくはなくなりました。



さみしいことなんて、たくさんある。
でも、一人でいる時間なんて、さみしいどころか自由な、至福の時間ですよ。
と、息子には言いませんが(笑)。
共に過ごす時間も至福なら、一人の時間も同じくらい至福。
そこにいつも一緒にいて下さる人は、
わたしの幸福だけを望んでいてくださる方だと思う、これも至福。


さみしさが分かるのは、人として、善きことであると思っています。







[PR]
by patofsilverbush | 2017-09-08 13:34 | | Trackback | Comments(0)

日々のあれこれを綴ります


by anne
プロフィールを見る
画像一覧