カテゴリ:心( 127 )

おいておくと・・・

何も気づかなかった目が、突然ひらいたかのように
それまで気がつかなかったことに 突然気づくようになる「時」がある__

夏目漱石の「こころ」の中に、そんな言葉がありますが、
誰でも同じように、
今まで気づかなかったことに、はたと気づくこと、
気づいてしまったら見過ごしにはできないことが、
あるのかもしれません。

ここ何年かかかってようやく、自分の中にある、いろんな感情の
おおもとの原因に突き当たっており、
それに伴って新たに、いろいろな感情が湧き上がっております。
怒りや悲しみも多く、
そんなふうに感じる自分がいやだなぁと思ったりもしましたが、
ああ、
事実を受け入れるための、プロセスの一環なんだなと思うと、
気が楽です。

というのも、本当のところでは、
怒りを感じてはいても、「許せない」感情ではないので。

「あったものを無かったことにはできない」ように、
傷ついたことを、なかったことにしようと思うのが間違いでした。
傷はついている。
その傷をつけた原因について、怒りや悲しみを覚えたとしても、
「ああ、傷がついてるわ、こんなところに」
と受け入れる過程の中の、怒りや悲しみなので、
まず、このマイナスな感情を受け入れないことには、
傷も治らない。

怒ってはいても、許している自分もいるのだと思えれば、
それほどマイナスな感情ではないという気もします。
混乱して、いろんな感情が混とんとしている中にある、
一時的な怒りなんだと知ること。


いつも自分の気持ちを分析しているわけではありませんが、
わからない、理解できないことは、
とりあえず置いておく。
放置してあるけれど、心のどこかにあるのは知っている、
という状態でいると、
いつか答えらしきものがわかる時が来る。しかも突然。
というのは、興味深いことです。






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by patofsilverbush | 2017-07-17 10:10 | | Trackback | Comments(0)

光・影

ちらほらと耳にしていた最近ですが、
今日は朝から聞こえます、蝉の声。

夏の日は偉人のごとくはでやかに今年もきしか空に大地に
                     中原中也


あらゆるものが、くっきりとした色彩でひかり輝く夏がやってきました。


神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる


などという、夏でさえ物憂く、寂しい、
倦怠や絶望と隣り合わせな感じの中也の詩は大好きですが、
はなやかな光を感じさせる、夏らしい明るさのあるこの句は、
毎年 「夏が来た!」と思うたびに心に蘇る、これまた大好きな一句です。
というのも、実は夏は苦手なので(笑)。
「偉人が来たわ!華やかだわ!」と思うことで、なんとか肯定的に、
この暑さを受け止めようと思う心の表れのような、気がしなくもない・・・。

思春期で心が不安定だったころ、
生活が夜型であったり、不規則であったりしたころ、
中原中也の詩は友達みたいなものでした。


息子の部活動で30分ほど早くなった起床時間。
家事は楽な方がいいと思っているので、
けっして「昔風の生活」にこだわっているわけではないのですが、
以前から気になっていたほうきでおそうじを、
最近取り入れています。
朝食をすまして 洗濯物を干し、お皿を洗ってふいて、
息子が出かけてからほうきで床をはく。
途中で地上波より30分早く始まるBSの朝ドラを見ながら基礎化粧。

8時30分には、なんとなく朝の家事も終わってしまい、
その間、騒々しいのは洗濯機の音くらいというのは、
なんだか朝の作業にはちょうどいい気がします。
朝から重たい掃除機を出してきて、コードを引っ張り出し、
騒々しい音をたてながら掃除をするのが、実はこのところ、ちょっと苦だったのです。

そんな生活に中原中也が入り込む余地はなく、
それは自分にとって、とても健やかなことなんだろうと思います。
怠惰で物憂い絶望に惹かれやすい性質の人は、
夜型になっちゃいけない!(笑)
ちょっと油断すれば、すぐにそんなものにふらふら惹かれてしまう質(たち)なので、
少しは自己コントロールできるようになってよかった。
年を重ねたことの恩恵ともいえます。



深い思想は夜中、静かに内省していると訪れるようにも思うけれど、
夜中じゃなくても、
静かな場所に、ひらめきはやってくるのですね。


規則正しい生活をしてごらん!などど、近所のおばちゃんよろしく、
中也青年に言ってみたい気もしますが、
光によりそう影のような詩をうたってくれる人は、
影の中にいる人にとって、必要なことでもあるのでした。










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by patofsilverbush | 2017-07-14 09:27 | | Trackback | Comments(0)

ビートルズがやってきた

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朝ドラ『ひよっこ』の劇中で、ビートルズが来日しましたね。

夫はずっとビートルズ好きですが、
わたしはドラマ『glee』の面々が歌って以来なので、
すごく最近、聞くようになりました。
(といっても、夫が車で流すのを、聞いているだけですが)
わたしにとっては劇中でgleeのキャストが歌っているのが
“ビートルズ”なのですが(ビートルズファンの方、いらしたらごめんなさい!)、
それでも、もともと好きな曲もあったり、
本家ビートルズを聞いているうちに 覚えて好きになった曲もあるので、
おお!ビートルズ来日か!
と、ムネオさんと同じように感慨深く、
来日を見守っています(笑)。


この曲を作ったとき、神さまが降臨したに違いない!
と思う、メッセージ性の強い歌もあって、
わたしの心の中で、何かはっと、
今、主のみ言葉を聞きました!(*個人的感想です)
という「気づき」体験をするとき、ビートルズの曲を聴いていた
ということも、幾度かあります。
歌詞にインスパイアされて湧き出る気づきなのか、
そのとき、自分に必要な祈りの答えを、神さまがくださっているのか
意見はあるかと思われますが、
わたしにとっては、それは祈りに対する、神さまの答えのような気がしています。



ある体験をする機会に恵まれた、
のだけれど、その体験を、自分は望んでいるのだろうか?
もっと端的に言ってしまえば、
それって必要な体験?どちらかといえば、不要では?
と思って、体験することを迷っていた数年前、
やはり車中で聴いていたビートルズの曲に、はっとしたことがありました。

それが必要なのか、不要なのか、
何を私が決めようとしているのだろう。
それがどんな経験になるのか、やってみなければ分からないというのに、
「わたしには不要」だと 決めつけようとしている愚かさ。
それが身になるのか、ならないのかは実のところ問題ではなくて、
そうやって世界を狭めようとしている、気持ちの頑なさに気づいたということなのです。

その体験をしたことが、今、結果的にどうであったかのか、
わたしははっきり「よかった」「素晴らしい体験であった」とは言えません。
それがあってもなくても、
たぶん気持ちは変わらないのだけれど、
宗教にある「洗礼」という儀式を、
形式ではなく、気持ちで語るとしたならば、
たぶん、私が主の洗礼を受けたのは、その瞬間だったのではないかと
今は思います。
自分ではかる、小さな思いや希望を超えて、
もっと大きな何かにゆだねること。

ビートルズが神や洗礼について歌っていたわけではないのだけれど、
I say Hello
と言われたあの瞬間の衝撃は、ちょっと忘れがたい。


愛がすべてだと、くちずさむ日。
あるがままでよい、と思う日。
こわがらないで、気持ちが変われば、すべてがうまくゆくよ、と鼓舞する日。
毎日の中で、小さく歌を繰り返して、
やっぱり愛がすべてだと思う、ビートルズ体験。
来日時のわくわくも体験できてよかったです♫












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by patofsilverbush | 2017-07-06 13:58 | | Trackback | Comments(0)

お守り言葉

赤毛やそばかす、がりがりにやせていることなど、
自分でも気に病んでいる外見的なコンプレックスを、
初対面のおばさんにさんざん(悪気なく)指摘されて
癇癪を起し、足を踏み鳴らしてどなりまくるアン。

グリーンゲイブルズに引き取られてから初めて、
「家族」ではない「よそのひと」であるレイチェル・リンド夫人に出会う場面は、
何度読んでも アンのものすごい権幕を想像しては笑ってしまう場面です。

「かんしゃくもち」であるアンですが、実際に癇癪を爆発させるシーンは、
ここと、同じく赤毛をからかったギルバートの頭に 
石板をたたきつける場面くらい。
でもどちらも、強烈に印象に残るシーンですね。

「ママも癇癪持ちなの?」と、今朝、息子が。
はいはい、そうですよ!!!
これでもだいぶん、抑えていると思います、
何度言ってもゴミをゴミ箱に捨てないとか、
引き出しをあければ
洗濯ものなのか、洗濯済みのものなのかすらわからない服が、
くしゃくしゃにまるまって突っ込まれているのを
何度も発掘している身としましては(# ゚Д゚)!!
何度目かわからないから、我慢の限界を超えた結果ですっ!いい加減にして!!


まぁ、ともかく落ち着いて・・・。


癇癪持ちではありますが、『若草物語』のジョーのように、
抑えようと絶え間ない努力はしております(苦笑)。
突然キレる、と家族は思っているかもしれないのですが、
日々、我慢して抑えている癇癪壺が満杯になった結果、
ふたが吹き飛ぶのでございますよ。


『生まれつき怒りっぽい性格をできるだけ抑えて、
時には爆発させながら、一生を終えた人。
一方で、ほんとにおだやかな性格で生まれた方が、そのような一生を終えた。
神さまの目にどちらが尊くうつるかわかりません。
わたしたちは
あの人はずいぶん怒りっぽい一生だった。
それに比べてもう一人の人は、とても穏やかで立派な人だったと
言うかもしれませんけれど
非常に怒りっぽい人が努力をして一生を終えたことのほうを、
努力しないでおだやかな一生を終えた人よりも、
価値高く見て下さる方があるのです。』


折に触れて読み返す、
シスター渡辺和子の著書『「ひと」として大切なこと』の中の一節。
そんなふうに思って下さる方がなければ、
わたしなんてコンプレックスや自己嫌悪に押しつぶされてしまう。

努力しても、目に見える「成果」がよくわからないこと、たくさんあるけれど
そんなふうに思ったら
「成果」が見えなくても、
少なくとも努力はしている、と思うことはできます。


神社ならお守り、教会ならメダイなど、
身や心を守るための、目に見える印を持っていると、
人はなんとなく安心したりもしますね。
同じように、身や心を守る言葉が、自分の中にたくさんあると、
目には見えないけれど、心の中に小さな灯りを灯してくれることがよくあります。
心の引き出しに、たくさんしまってあるお守り言葉。


「わたしも少しばかり、癇癪持ちですのよ」
と、大人になったアンがため息交じりに言うと、
「けっこうですね、人に踏みつけにされる心配はありませんからね」
と返した、ミス・コーネリアの素敵な(笑)言葉と共に、
シスター渡辺のご本も、わたしの頼もしいお守り言葉のひとつです。








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by patofsilverbush | 2017-06-29 08:50 | | Trackback | Comments(0)

大好きなお二人が♡

何か月か前に買った刺繍の本を、ぱらぱらと見ていて、
ふと、「もしや・・・?」と思う。
一番最後のページを見て、がてんがいきました、この本を買った理由が!

撮影      大段まちこ
スタイリング  堀江直子

ああ、やっぱり。

いえいえ、刺繍も素敵なんですよ、もちろん*^^*
でも、刺繍やソーイングの本を選ぶと、
たいていどちらかのお名前が、時には両方入っている、
大好きなお2人なのです。
本を選んでいる時点では、いつもまったくそんなところは見ないのですが、
買って帰って、あらためてゆっくりながめていると、
ふと気がつくのです、あれ、これはもしや・・・?って。
堀江さんの可愛く、シックでノスタルジックなスタイリングと
大段真知子さんのしんと静かな写真が大好きで、
無意識に選んでいるようです。

そんなふうに、意識していなくても何かを感じさせる、
あからさまではない静かな個性に憧れます。
自分の好きなものがぶれない人の、
柔らかな強さみたいなものかもしれませんね。

ああ、こんなふうになりたいなぁ
と、素敵な人を見るといつも思うけれど、
自分のもつ性質や、エネルギーの在り方とはまったく違う輝きを
魅力的だと思うこともありますよね。
「ああなれたら素敵だけど、ちょっと無理そう」と。
きっとマネをしてみても、自分がつかれてしまう。
もうちょっと現実的に、実際に「こうありたい!」と努力できる、
自分が思う「素敵な人」の感じが、
ようやく少しずつだけれど、見えてきたような気がしています。






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by patofsilverbush | 2017-06-27 08:36 | | Trackback | Comments(0)

楽な選択でもいい!

ふだん のんびり暮らしていますが、
時々「さあ、どうする?どうしよう?」と
やる・やらないの選択を迫られる時もあります。
そんなたいした事じゃなくても(笑)、
「お肉とお魚、どっちにしますか?」的な、
小さな選択を繰り返しながら、わたしたちは日常を過ごしているわけですが、
時々は悩ましく、決めかねることも、ありますよね。

出さなきゃいけない書類とか、
これをしないと物事の流れが滞る、という場合は、もちろん
気が向かなくてもしなければならないけれど、
別に何が滞るわけではないというとき、
「やりたくないなら やらない」という選択をしてもいいかな
と、最近、ちょっと思えるようになりました。
やりたくない、ことでも、
やったほうがいい?と、なんだか自分に枷をつけてしまう傾向があるのです。
責任感なのか、いい人ぶりたいだけなのか。
できる範囲でする、の「できる範囲」を、
自分に嘘をついてまで広げてしまうというか。
できるんだけど、本当はやりたくないと思ってることって、ありませんか?
それをしないと、すごく罪悪感があった。
できるんだけど、やらない自分に対して。

そんなに自分に厳しくなくてもいいか、と
今はちょっと思う。


本当に自己管理のできる人からしてみたら、
「十分、甘すぎですっ!」というレベルですが(苦笑)
まあ、自分が苦しいというのは、
せっかく生きている「私の人生」の中で、わたしがかわいそうだな~
なんて。

それでもまだ、迷って決めかねることも もちろんあるけれど、
「やりたくないなら、やめたら?」
と言える親切は、自分のためにしてあげてもいいかな。
そんな選択肢も、あるよ!と提案できるようになって、
だいぶん、気が楽になりました。





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by patofsilverbush | 2017-06-08 13:59 | | Trackback | Comments(0)

余地

息子の幼稚園は、近所にあるものの、
いわゆる認可の大きな幼稚園ではなかったので、
小学校で、同じ幼稚園に通っていた、という子はほとんどいません。
みんな小学校に上がってから友達になりました。

親である私も、だから子供たちのことはほとんど知りません。
息子を学校まで送っていくうちに、お互いに顔を覚えた・覚えてくれた子、
ソーイング活動で学校に行くうちに、「あれが○○(息子)のお母さん」と
覚えてくれた子もいるし、
けっこう子供って、「誰々のお母さん」を知ってるもんだなぁ!とびっくりします。


「しっかりした子なんだな」
「身体は大きいけど、おっとりしてるんだね」
「うちの子と似たようなタイプなのかな」
「活発なんだね」などなど、
息子の話しから、それぞれのお友達の印象を受けるわけですが、
ときどき、主観と客観ということを考えます。

仲のいい、好きなお友達のことを話すときには楽しい気ですが、
相手のいいところや、かっこいいところばかりではなく、
「意外とこんな面もある」ということをぱっと話すときなど、
本人はたぶん無意識だけれど、相手のことを客観的に見ているんだろうなと
感じることもあります。
いいところも、そうでないところもあって、総合して「誰々」。
一緒にいて楽しいときもあれば、今日は一緒に遊びたくないかな、
という日もあって、それがふつうというか。
男の子ならではのさっぱり感なのかなぁ。

一方、ちょっと苦手な子の場合は、
なかなか「いいところ」に目がいかないようで、
そんなときには、主観で話しているのかな?
それとも、それが客観的に見たその子の姿なのかな?
と、相手を知らない、受け手である私は ちょっと考えなければいけない時もある。
うちの子がこういっていたからと言って、
悪いのはうちの子かもしれない、ということも、
往々にしてありますからね。
もしかしたら、息子の言う通りの子なのかもしれないし、
そうでないかもしれない。
と、思う余地は、必要かなと思います。


自分の目線もそうですが、
何事も客観的にとらえるのは難しいことです。
つい、感情的になったり、ある一つのことにしか、目が向かなくなったりする。
視野が狭くなっている。
正面からは見えないけれど、球体には裏側もある、
と思う、心の余地は、ないよりあったほうが、きっと心が緩やかだし、おだやか。









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by patofsilverbush | 2017-06-07 09:26 | | Trackback | Comments(0)

見極められない

なんとなく、もやもやと考え続けている案件が、ここ半年ほどあって。
いつも気にかかってしょうがない、というほどでもないけれど、
ふとした拍子に思い出すと、そのたびに「うーん・・・」と考えを巡らせてしまうこと。
我ながらしつこい!と思うほどなのですが、
なんだか「すっきり!」と理解できなければ、
「解決した!」ともいえないので、気になってしまうんですよね。

そのことに携わるたくさんの人たちそれぞれに、考え方や感情、思惑がある中で、
自分なりにできることはしたつもりでしたが、
もっと別の在り方があったのでは?
わたしがもっと違うアプローチをすればよかったのか?
何か別に、できることがあったのかしら?
と、ちょっと考えてしまう。


ひょっとして、もやもやを感じるわたしの感覚がおかしい?
すごくものごとを自分本位に、閉塞的にとらえてしまっているのかなぁ・・・
と思っていましたが、
ふとした時に、
まったく私の案件とはかかわりのない人々が、
その人たちの場所で、
わたしと同じような感情をもってもやもやしているようだという話を聞いて、
なんだかちょっと安心したのでした。

もちろん、多数派の意見や「ふつうはこう」と大多数の人が考えるあり方が、
常に正しいとは まったく思いませんし、
みんながみんな、物事に対して自己本位で閉塞的な見方をしていることだって
あり得るのですが、

ああ、でも困惑しているのは私だけではないんだな、
と知ったことで、
「人を困惑させるだけのことはある案件」なんだということは、
理解しました。
少なくとも、わたしだけが感じる困惑ではないんだな、と。


ストレートにズバン!とくる出来事なら、たぶん
腹は立っても、それほど困惑はしないのかも。
なんだか嫌な気持ちになる、のだけれど、
自分が何に対してそんな気持ちを抱いたのか、
はっきり言えないので、みんなもやもやしてしまうのかもしれません。
心理学の研究としては面白いのかも?

みんなで集まって その出来事について話し合い、
共感しあった、というわけではないけれど、
なんとなく遠巻きに「そうだよね」と安心し、
わたしが「何とかできる」問題ではないんだなと、そこだけは納得がいったのでした。


自分の問題と、誰かが自分で解決すべき問題は 混在するので、
どこまでが自分の問題であるのか、見極めが難しい。
親切なのか おせっかいなのか、
導きなのか 誘導なのか、
の判断が、難しいのと似ています。
自分がする側であっても、される側であっても。

ひとつだけにとどまらず、
なんとなく身近でそんな話がいくつかあったので書いてみました。






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by patofsilverbush | 2017-05-25 13:02 | | Trackback | Comments(0)

決めるのは自分

子どもと過ごす、こんな時間が至福・・・
と書いたところで、子どもが生まれる前は、
子どもなんて好きじゃない、いや、むしろ嫌いでした。
実際は今でも好きじゃないかも。
生意気そうだし、面倒くさいし、お店やなんかで走り回っている子供を見ると、
やれやれ と思うし、時には注意だってしちゃう、こわいおばちゃんです。
自分の子供がいて、いろんな姿を日々しているから、
よその子のがんばっている姿もかわいいなぁ~がんばれ!と思うこともあるけれど、
幼稚園や学校の先生になりたい♡と思うことは、
絶対ないと思われます(苦笑)。


子どもがいない時は、自分の時間を好きなように使えることが至福でした。
夜遅くまでテレビを見ていても読書してもいいし、
お風呂にず~っと入っていたっていい。
夜になってふらっとご飯を食べに行ったっていいし、
遅くまでふらふらとお買い物だってできる。
ご飯なんてそっちのけで手芸をしていてもいい。


今は子供に関わっているがために、めんどくさいこともたくさんあるし、
自分のしたいことばかり考えてもいられないけれど、
それを楽しもうと思わないことには、
子育てなんてやっていられない、というのが正直な気持ち。
そりゃあ少子化にもなるよね、と思う。
めんどくさいのにキャリアにもならないし、お給料をもらえるわけでもないんだし(笑)。
誰かが「がんばってるね!」と評価してくれるわけでもないんだし。


子どもがやってきたことで、学んだこともたくさんある。
いなかったら知らなかったであろうハッピーなことも、たくさんあります。
でもきっと人それぞれ、「その人に合った、その人に必要なこと・もの」は
それぞれに違った形でちゃんと与えられているんだと思うのです。


子どもがいない時は不幸だったわけでも、
子どもが生まれたから幸福になった、わけでもなく、
もちろん子供が生まれたから不自由だわと思っているわけでもなく、
いつのときも、
そのときの状況をハッピーだと感じられるかは、自分の心次第な部分も大きい。
そして
共感や慰めや理解が心の支えになることはあっても、
自分にしか決められないことでもあります。
同時に、自分だけが決められる、自分で決めていいことでもあります。

なんとなく今、
「ハッピーな状況にあるか」の判断を人にゆだね、
ハッピーじゃない状況を誰かに、どうにかしてもらおうと思うような感じが
あちこちにあるような気がしています。













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by patofsilverbush | 2017-05-24 10:15 | | Trackback | Comments(0)

不思議な贈り物

先日、お友達から素敵なロザリオをいただきました。
数珠玉をいくつも連ねたネックレス状の先に、十字架がついているのがロザリオ。
ネックレスとして使うものかと ずっと思っていましたが(笑)
そしてファッションアイテムとしてネックレスに使っている男性なども、
たまに見かけたりもしますが、
実は数珠と同じく、お祈りに使う道具?です。
珠を繰りながらマリア様の祈りを繰り返すためのもの。
いただいたロザリオはもっと短く、
旅先などに携帯して持ち歩ける形状のものでしたので、
これまたいただきもので、いつもポーチに入っている小さな小さなマリア像と一緒に
持ち歩くことにしようと思いながら、
今はまだ、テーブルの上において嬉しく眺めては、
時おり手に取って そっとにぎってみたりしています。



贈ってくださったお友達は、
時おり、素敵なサプライズの贈り物をくださるのですが、
不思議なことに いつも、わたしが気にかかっているものが
まさに「その時」届くことが多いのです。
不思議な繭の夢を見た・・・数日後に、繭を使った石鹸が届いたり、
ココアが飲みたいなぁ・・・なんて思った翌日、オーガニックのココアが届いたり!
どこかで見ているの?と思うほど、
遠方に住んでいるのにその魔法のようなタイミングに
いつも感激ひとしおなのです。

実は今回のロザリオも。
少し前に、「あ、これ素敵♡」と とあるお店で
ファッションアイテム、ネックレスとしてのロザリオを 
手に取ってながめたばかりだったので、本当にびっくりしました。
嘘みたいだけれど本当の話。

なんとなく、目に見えないけれどつながっているものがあるのかなぁ
と思うと、
わたしのことを思って選んでくださった、その方の時間と共に
しみじみと嬉しく思います。









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by patofsilverbush | 2017-05-18 14:21 | | Trackback | Comments(0)

日々のあれこれを綴ります


by anne
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