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男ゴゴロをそそるもの

「ウルトラマン」という単語に、やたらと素早く反応する うちの子。


勉強はさっぱりなのに、
ウルトラ兄弟だけは、しっかり見分けて、
名前を覚えるのも はやいはやい。
母には誰一人、区別さえできません。赤と銀色で、みんな同じに見えます。


食事の支度をしている時、
息子が 録画したウルトラマンを観ていたりすると、
台所に聴こえてくるのは
「ジョワッ!」
「シャァッ!」
とかいうような声(?)ばかりです。


ちょっと前に、
JRの各駅で、ウルトラマンのスタンプラリーがあるよ!
という、お知らせを 駅で見かけて、
しっかりパンフレットを持ち帰ってきました。
(始まる頃には 忘れてましたけど)

9歳にもなって、まだウルトラマン・・・
もうすぐ4年生になるというのに・・・

と思っていましたが、

いざ、スタンプラリーが始まったら、
並んでいるのは 子供よりも、男性ばかり!
というニュースを テレビで観て、

ああ、年齢関係なく、
男はウルトラマンに弱いんだ、
と悟りました(笑)。

可愛いスイーツに惹かれて、女性がついつい、カフェに引き寄せられるのと、
同じなのかしらん?

自分の子が 女の子だったら、
同性として、成長の過程で追体験できることが、あるものなのかな?
我が家は息子一人しかいませんので、わかりませんが、
男子の行動は 謎に満ちており、
まあ、ある意味では新鮮。
普通の意味では、イライラしますが(笑)
別の生き物だわ!と割り切ってしまえば、
放っておいてもどうにかなる、ような気楽さも、あるのかも。


とにもかくにも、ウルトラマン。
学校の先生が、ウルトラマンならいいのに。
「ジョワ!シャァッ!」だけで、
男同士なら なんでも通じちゃうかもしれません。









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by patofsilverbush | 2015-03-10 08:49 | 子育て | Trackback | Comments(0)

バレンタイン・デイとホワイト・デイ

うちの王子は イケメンです。

比較的、ととのった顔だちをしているらしく、
幼少のみぎりから
初対面の方に み目麗しいと よく褒めていただきます。
ディズニーランドでアトラクション待ちをしているときにも、
後ろにならんでいた女の子が、彼氏に、
「あの子、イケメン(!)じゃない?」とささやくのが聴こえてきたり。

俳優さんは 小さなころの写真をみても、かわいらしくて、
「もてたでしょう~?」
「いや、まったくもてなかったですよ」
という会話を、よくテレビで観ますが、
「ご謙遜でしょう!」と思ってました。

今ではよくわかります、イケメンだからって、モテるわけではないことを!

性格や頭脳、運動神経・・・さまざまな要素がからみあって、初めてモテにいたるわけで。
王子、残念!


幼稚園時代に 女の子が多かったせいか、
女の子慣れしている 我が息子。
女の子の友達も多いのですが、
のんびり おっとりいていて、アホ。という感じが、
女の子的に、「話しやすい男子」ってことかもしれないですね、
もてている、というより、同化している、というほうが、あっているような気がします。

そんな子なので、先月のバレンタインにも、
友チョコ交換♪のノリで、いくつかチョコレートをいただいたり、
交換したり(←このあたりが、女子と同化)してきました。


さすが女子の皆さま、可愛くラッピングされた、
手作りのチョコや クッキーが 可愛らしくて、
男子母には 目にも眩しい光景です。
当日「交換するから、ぼくも何か持っていく」と突然言われた母は、
家にあった 頂き物のお菓子と、
息子がおばあちゃんからもらった、妖怪ウォッチのでっかいポッキーを 
あわてて詰め合わせたというのに。


今週末にはホワイトデーがあるので、お返しを用意せねば、
と、息子と お菓子売り場を見に行きました。
インポートの可愛いクッキーを箱で買って、ちょっとずつ小分けにしてラッピングする
というので、それを買いましたが、
わたしがあれこれ提案する傍ら、
「めんどくさいから なんでもいいよ~」とそっけない男子。
つまらん。
どうせ ラッピングもわたしがやるはめになるんだろうなぁ。


私が子どものころには、
バレンタインにチョコレートをあげるなんて、考えただけで「きゃ~無理無理!」な、
乙女にとっては華やかな、どきどきするような日でしたっけ。
もちろん、低学年のころには まったく何の関係もないイベントであり、
少し大きくなった高学年や 中学生になっても、
好きな子に告白なんて、とんでもない!と、チョコをあげた経験もありません。


学生時代にしかできない そんな 心ときめく はずかしい体験を、
今思えば、経験しておけばよかった!と思ったりもしますが(笑)、
もちろん 親になんか何にも言わないで、
告白するという 勇敢な友達のために、
近所のマルエツで(笑)
みんなでセンスのいい(と思われる)チョコを あれこれ選んだり、
当日 着ていく服を物色したり、
したのは、今でも うふふ♡とほほ笑みたくなる、甘酸っぱい思い出です。


今みたいに、親が 材料やラッピング資材を 準備したり、
作るのを手伝ったりして、子どものころから楽しめるイベント・・・
というのも、
楽しいようで、なんだかツマラナイことだなぁ と思ったりもします。

ま、バレンタインに 女の子からチョコレートをもらえるなんて、
子どものうちだけかもしれませんがね(笑)。


がんばって、いい男になってもらいたいもんです。
そして、いもとあやこちゃんみたいな、
ガッツのある、一生懸命な、素直な子をつれてきてほしいものです♪














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by patofsilverbush | 2015-03-09 10:02 | 子育て | Trackback | Comments(4)

信仰、希望、愛

アニメ『赤毛のアン』を見ている息子。

「学校のコンサートで、活人画に出るのよ。
“ 信仰、希望、愛 ” を表現するんだけど、難しいの」
と、マシュウに打ち明けるアン。

活人画は、たとえば聖書の言葉を、
セリフや言葉を使わずに、ポーズだけで 表現する、
まさに「活」きた「人」の描く「画」です。

どんなポーズをとれば、“ 信仰、希望、愛 ” が 表現できるでしょうか?


「え~、難しいね!」という息子が考えた
“ 希望 ” のポーズは、胸にこぶしを当てて(凛々しく?)立つポーズ、
“ 愛 ” は わたしとハグするポーズ(?)。

「“ 信仰 ” は?」
「う~ん・・・わかんない」


しばらくして、
「“ 信仰 ”も、これでいいんじゃない?」と、またハグ。

考えた結果なのか、めんどくさくなったのか 判然としませんが、
まあ、確かに、
そうだな! という気もします。

信じること、愛すること、信じて希望すること。
それはすべて、ぎゅうっと ハグで表現できるかもしれませんね!
神さまが、わたしたちを
ときに そっと、
ときに ぎゅっと、
抱きしめて、共にいてくださるように。


そしてそれは、「どんなふうに表現しようか」などと、
頭で、理屈で 考えるより、
ずっと単純で 素直で 簡単なことなんだと、
子どもといると、よく感じます。











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by patofsilverbush | 2015-03-08 15:00 | 子育て | Trackback | Comments(0)

お弁当箱

久しぶりにショッピングセンターへ行ったら、
新しく、駄菓子屋さんができていたので、
パートナー氏とぶらぶら入って お菓子を吟味してきました。

実家の近所、ものの3分ほどのところに、小さな小さな個人商店があり、
母に、パンなどのちょっとしたお使いを頼まれたり、
遠足のおやつもそこ、
ノートや鉛筆、消しゴムなどの文房具もそこで、
と、本当に足しげく通ったのものですが、

母の、買い食い禁止令をきちんと守る、真面目なお子様だったわたくしは、
そこで ふだん駄菓子を買ったことはほとんどありません。
(ちなみに、妹たちはふつうに買い食いしてたそうですよ)

ジャンクなもの、スナック菓子などを、
今でもそれほど食べたいとは思わないのは、
そんな教育のたまものといえましょうが(笑)
それでも、「これ好きだったな~」という懐かしいお菓子はあって、
久しぶりに パートナー氏にきなこ飴を 買ってもらいました。



息子の幼稚園は お弁当でした。

うちは年中から2年間、幼稚園に通わせましたが、
(モンテッソーリの子どもの家なら、もっと早くから通わせればよかった・・・)
まず初めに使ったのが、
無印良品で買った、アルミのシンプルなお弁当箱です。


一袋ぶんのきなこ飴が ちょうど入りましたが、
改めてみると、ちっちゃいお弁当箱だなぁと思います。

実はこれを使ったのは、ほんの2,3カ月のことでした。
「お弁当、ちょっと足りないみたいなので、もう少し 大きめのお弁当箱でも 大丈夫です」
と、幼稚園の先生に言われたからです。

その後は 幼稚園のほぼ2年間、それから2年生くらいまでは、
2段式のまるい曲げわっぱの、
一段分をお弁当箱にしていましたが、
今やそれでは もちろん まったく足りず、
遠足や、年に一度のお弁当デイには、
ちょっと小ぶりの、朱塗りのわっぱを使うまでに、食べる量も増えました。

年齢平均より だいぶん小柄な息子ですが、
歴代のお弁当箱を考えてみると、
大きくなったんだな~ と、ちょっと感慨深い。


ついこの前、入学したみたいなのに、
小学校生活も、もう半分が終わりそうです。


4月からは4年生。
小学生のころの記憶が、ずいぶん明確に 残る学年になってきます。
(わたしだけかな?みなさんは、低学年の頃の記憶を、たくさんお持ちでしょうか?)


親と一緒に何かしたことより、
お友達との時間が、心に残る 年齢になってきて、
わたしが作るお弁当も、
彼にとっては 今までとは違うものに思えるように、なるかもしれない。

楽しい学校生活を 過ごしてくれるといいな。と思うし、
小さな子ども、では、もうなくなるんだなぁ・・・
子育てはまだまだ 続いてゆくけれど、
年齢としては、ちょっと一区切り、
と お弁当箱を見ながら 感じもします。



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by patofsilverbush | 2015-03-08 14:34 | 子育て | Trackback | Comments(0)

学習しないなぁ

こういう風に、
 人の云うことも聴こえなくらい熱心に、寸分の隙もなく 立ち働く姉を見れば、
 知らない人は 誰でも感心して、
 何というシッカリした、かいがいしい主婦であろうと思うのであるが、
 ほんとうは、
 姉はそのようなシッカリ者ではないのであった。
 いつでも何か事件が起こると、
 最初にまず 茫然としてしまって、放心したような状態となるが、
 しばらくして、その期間が過ぎると、
 今度は まるで神がかりになったように働き出す。
 だから、
 そんなところを傍から見ると、
 いかにも 骨身を惜しまない 活動的な 世話女房のように思えるけれど、
 実はもう興奮しきっていて、何が何やら分からなくなり、
 ただ夢中で働いているだけなのであった。

谷崎純一郎は 『細雪』 の中で、
四姉妹のいちばん上の姉・鶴子を こんなふうに描写しています。


息子の風邪がたたったかの、
花粉症が悪化したのか、
はてはお片づけでくたびれたのか、
今週の前半は3日ほど、微熱が出て、
ごろごろと何もせずに過ごしていました。

なんていうか、繊細と言えば聞こえはいいのですが、
いろんな点において、タフじゃないのよねぇ・・・。

子供のころから、ちょっと張り切って何かに集中して、くたびれると、
熱が出る体質です。

母にも、パートナー氏にも、
「根を詰めない!」「ほどほどに!」と注意されるのですが、
やってるときは楽しくてね~。体力というより、気力でウキウキと動いてしまう馬鹿さ加減。

というわけで、
いつも この鶴子の描写を読むと、にやりとしてしまうのです。

バレエを長年やっていたというのに、強壮な肉体も、体力もなく、強い精神力もなく・・・
脆弱な自分にあきれますが、
こういう質なんだなとも思います。

みなさまもどうぞ、無理なきよう、
お身体・お心 ご自愛くださいませね!






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by patofsilverbush | 2015-03-06 09:37 | 生活 | Trackback | Comments(0)

取り組む覚悟

『赤毛のアン』の14章では、
マリラが大切にしている アメジストのブローチが無くなってしまい、
「一番最後に触った」アンを 疑うマリラと、
「取っていない」と言い張るアンの間に、心の誤解が生じます。

「持ち出して無くしてしまったものの、
怒られるのが怖くて、取っていないと 嘘をついているにちがいない」
と思うマリラは、
ブローチが無くなったことよりも、
アンが嘘をついていることに、より心を痛めるのです。


よくあることですよね。
怒られるから 黙っていようと思うこと、嘘をついてしまうこと。

子供が言っていることが、正しいのかも、
よく分からない時もあります。
先生と子供の話が、食い違っているときも。



生きているうちには、
「ここは時間をしっかりとって、じっくり取り組まなくては!」と、
心を決めなくてはならない事柄が、時々、あるかと思います。
仕事のことや、誰かとの関係など。

毎日、昨日の続きのように 子供と暮らしているけれど、
ある時に、やっぱり、
自分が どのくらいの時間をかけて、子供と向き合ってゆくのか、
心を決めた方がよい時も、あるように思います。


きっと、障害をお持ちの方は、すごく強く覚悟することがあるのではないかと思うのですが、
うちみたいに、
ちょっとマイペースが強すぎる子もそう。
ある時、
「しっかりこの人と付き合っていこう」と覚悟した日があります。

マイペースならマイペースでもいい。
ちょっと手がかかるのなら、時間をしっかり取って、つきあっていこう、と。


もちろん、そうじゃなく、
特別 なんの問題もないように思える子だっておんなじで。
子供がトラブルを抱えているとき、
しっかり時間をかけて、一緒にそこを超えてゆこう! と決めなければならない日が、
誰にだって訪れることは、あるわけです。


自分の仕事や、趣味や、楽しみのために 使える時間を、
子供に使うことは、正直言って、めんどくさい。
でも 子供に対して時間を使うことを、
大人はちょっと、おろそかにしすぎているんじゃないかな。と、
最近の 悲しいニュースを見て 感じます。



「取っていない」と強情を張り続け、部屋で泣いていたらしい アンの様子に、
マリラは 可哀想で胸を痛めますが、
しつけを受けてこなかったアンのために、
嘘はいけないことだ と教えなければ、と
心を鬼にして ぐっと我慢します。

怒るって 膨大なエネルギーが必要だし(!)、
そんなこんなで へとへとになってしまうマリラですが、
「鋤に手をかけたからには、うしろはふりまえるまい」
と、聖書の言葉を使って、自分に言い聞かせるのです。



自分についていきたいと言った人たちに対して、イエス様が、
その覚悟を問う言葉として、
聖書に書かれている言葉。

 自分には住む家もない、安住の地もない、
 他にしたいことがあっても、それに背をむけて、
 神さまの言葉を 告げ知らせることに、
 あなたは 自分の時間・思いのすべてを 注ぐことができますか?


とても壮大な言葉を、マリラは口にするのですが、
それだけに、
アンを育ててゆくことに 全力を傾けようと心を決める マリラの、
かたい決心が伺えます。


子供を育ててゆく、ということは、
一人の人を、育ててゆく ということ。
本当はとても責任が重いし、
考えると 怖いことです。

こんなふうに きちんと覚悟すべきことなのかもしれない。


誰だって 自分の好きなことをして過ごしたいし、
子供は 手がかからないでいてくれれば 楽ちん!と思うけれども、
そうじゃない、
やっぱり、人を育てるのは、
時間も手間もかかるのだ(仕事を教えるのだって、そうですよね) ということを、
大人たちは自覚したほうが いいと思うのです。









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by patofsilverbush | 2015-03-05 10:08 | 子育て | Trackback | Comments(0)

『長靴下のピッピ』

アンは よく、「生きているって素敵」 と言いますが、
子供の本に よく描かれている、
そんな、なんでもない文章が とても好きです。

特別な何かが起こったから、というわけではない、
ただ、生きていることそのものが、楽しく嬉しい
という気持ち。


たとえば 『長靴下のピッピ』に出てくる、こんな文章____

   ある晴れた日の午後、ピッピは、コーヒーとビスケットを用意して、
   トミーとアンニカに ごちそうしていました。 
   コーヒーなどはベランダの階段に、ならべていました。
   そこは とても日あたりがよくて、
   ピッピの庭の花々が、すばらしくいい香りをただよわせていました。
   ミスター・ニルッソン(ピッピのおさるさん)は、
   ベランダの手すりをよじのぼったり すべりおりたり していました。
   ときどき 馬が鼻づらをつきだして、ビスケットをねだっていました。
   「やっぱり、生きてるって、ほんとにすばらしいことね」
   ピッピはそう言いながら、せいいっぱい両足をのばしました。


物語としては、このあとから とあるできごとが起こっていくのですが、
その出来事とは無関係に、
ただただ 楽しい気持ちでいる ある日の感じが、
わたしの心まで 楽しいものにしてくれるのです。



ピッピを書いたのは、スウェーデンの作家、アストリッド・リンドグレーンです。

スウェーデンの児童文学者といえば、まず名前があがるかと思われますが、
子供のころ、
何度 図書館で借りたかわからない『やかまし村』シリーズ(映画も大好き)や、
何度も見る映画『ロッタちゃんと赤い自転車』『ロッタちゃんとはじめてのおつかい』も、
このピッピも、
本当に大好きな、それこそ ビスケットみたいな物語なのです。
ケーキみたいに特別じゃない。
素朴だけど、パリッとしてて、毎日のおやつにぴったり!

ピッピもロッタちゃんも「いい子」ではありません。
することは(大人的に見れば)突拍子もないし、
映画のロッタちゃんにいたっては、大半はぷんぷん怒っています(笑)。
というわけで、パートナー氏は、悪い子だから好きじゃない!と公言しています。
ちびまるこちゃんや のびたについては何も言わないのに?
(すみません、まるこものびたも、わたしは嫌いです)


いい子・悪い子の枠を超えて、
何がOKなのか の基準が、違うらしい。

しいて言えば、
リンドグレーンの物語の中の子供たちは、
みんな 自己責任の上に 自由にふるまっているような気がします。
誰のせいにもせず、世の中のいろんな「~ねばならない」から解き放たれている。


わたしの持っているピッピの本には、あとがきに、
リンドグレーンの こんな言葉がのっています。


  子供たちが、わたしに、とてもいいものを教えてくれました。
  彼らは、愛情とはなにか ということを教えてくれたのです。
  わたしは自分の子供を持ってみて、はじめて ほんとうの愛情というものを
  知ることができました。
  相手に何物も要求しない、エゴイスティックでない愛情です。
  いま、わたしの子供は、ふたりとも大人になりました。
  けれども あの子たちが いつか教えてくれた愛情の 小さな小さな断片は
  わたしの書くものすべてに はいっているのです。


子供がいても、いなくても、それなりに幸せであると思うのですが、
愛情に関しては、
実はわたしも同じように感じています。
大人として、パートナー氏がわたしに与えてくれる愛情、
わたしがパートナー氏に注ぐ愛情とは、
まったく違う愛情がある ということ。



子供のありのままを見守る リンドグレーンの
愛情や おおらかさを、
わたしも 彼女の本から感じるのだと思います。


小さかった娘さんが病気になった時に、
お母さんであるリンドグレーンさんがしてあげた、いろいろなおもしろいお話が
『ピッピ』の原型になった、
と、あとがきには書かれています。

ああ!とうなずける、
なんともいきあたりばったりな、愉快な、ピッピのお話は、
子供に読んであげるのにも、自分が読むのにも、
やっぱり枕元にぴったりの 一冊なのです。



















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by patofsilverbush | 2015-03-04 09:58 | 本・映画 | Trackback | Comments(0)

寝る前に読む本

我が家には あちこちに本棚があるんだなぁ
ということに、片づけをしながら思いいたりました。

いやいや、
あちこちに本があることは、知っていたんですけどね(笑)。

たとえば、
子供のころからず~っと親友ですよ
という方たち(本です)は、リビングの本棚に。

もとは母のものだった、祖父が買いそろえた「少年少女 世界文学全集」は、
それだけで一つの専用本棚があり(本棚もセットだったものと思われます。ぴったりサイズだから)、
2階の1部屋に安置されており、
忘れたころに 読み返したくなる、という本は、
屋根裏部屋に。

そして、ベッドサイドの 小さな棚に置いてある本。

実はこの、ベッドサイドに置く本、というのが、
意外と難しくて。
あんまりおもしろいと、読むのがやめられなくて困ってしまうし
(眠いのにやめられないなんて、拷問ですよ!)
かといって 退屈過ぎてはお話にもならない。
楽しく読んで、「今日はここまで」と 気持ちよく眠りに入れる本。
今日の自分をちょっと省みたいときもあるし、
明日の自分にエールを送りたい日もあるわけで。


というわけで、軽いエッセイや(考え込んでしまうエッセイは置かない)、
お弁当や、食にまつわる本
(大好き!夕飯が早いので、写真を見たり、読んだりしているうちに、お腹が空いてしまうのですが)
元気が出る『ながくつしたのピッピ』
聖書や『ハイジ』(『ハイジ』は、聖書と同じ扱い)など、お祈りの本
聖書じゃないけど、いわゆるスピリチュアル本や自己啓発本などなど
十数冊が並んでおり、
その日の気分で 好きなものを手にとり、
眠る前に読むのが習慣です。



スピリチュアル本や自己啓発本に関しては、あまり手にとることはなくて、
人に「これ、いいよ!」と 勧められた物がほとんど。
どうしても なんとなく行き詰まった時に 手にとるくらいなのですが、
きのう、
なんとなく その数冊を撤去してみたら、
なんと!
ものすごく 心が軽くなりました!

特に嫌いな本、というわけでもなかったはずなのに、
実はけっこう負担だったらしい ということに 気がつきました。

自分の気持ちって、本当にわからないものですね。


要る感情、要らない感情
とよく書くけれど、
こちらも実は 物とおなじで、
ときめくか、ときめかないか で判断はつくような気もします。


みなさんは、眠る前に必ずすることって ありますか?





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by patofsilverbush | 2015-03-03 09:57 | 生活 | Trackback | Comments(0)

ありのままの

夕立があったある日、虹が出ました。


西の空は夕方の、黄金のるつぼ。
虹のあとには、薔薇色がかった灰色の雲が、どんどん広がって、
なんともいえない、不思議な、美しい空模様でした。



庭に咲いた早咲きの水仙が、
この数日の
眠りに落ちる瞬間や、
朝、目覚めた瞬間を彩ってくれました。

こんなドレスがあったら可愛いな と、モンゴメリの小説のように思ったり。


夏目漱石の『それから』の中に、
ヒロインの三千代が、
鈴蘭のいけてあった鉢から水を飲む、想像するだに美しい場面があります。

気分が悪く、水が欲しいという三千代のために、
主人公の代助は 台所へ水を汲みに行きますが、
書斎へ戻ると、三千代はすでにコップを手にしています。


  『「有難う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり綺麗だったから」
    と(三千代は)答えて、鈴蘭の漬けてある鉢を顧みた。
    爪楊枝位な細い茎の 薄青い色が、水の中に揃っている間から、
    陶器の模様が仄かに浮いて見えた。                 』


かつて
想っていた三千代を 親友に譲ってしまった代助は、
彼女が親友と結婚してしまったあとで、
彼女への愛を はっきりと自覚し始めます。


代助・三千代・親友の平岡をめぐる関係を描く『それから』は、
今どきの不倫もののような気持ちの悪さは まったくありません。
漱石の筆はあくまで潔癖で、
三千代の清潔な美しさは、
こんな花の描写にも表れているような気がします。

愛することと、現実に対処する苦悩。


水仙も 鈴蘭も、香りたかい花ですが、
植物の香りは、アロマオイルとは全く違う、
独特の 冷たい清潔さがありますね。


人は自然に癒される と言いますが、
人工的でない、
ただ、あるがままにみせてくれる その美しさに、思わず素直に心をひらくことが、 
リラックスにつながるのかもしれません。


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by patofsilverbush | 2015-03-03 09:24 | 生活 | Trackback | Comments(0)

日々のあれこれを綴ります


by anne
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