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お祈りの本質 (『赤毛のアン』11章・3)

日曜学校と教会へ、一人で出かけたアン。
どうだったのかと様子を問うマリラに、
「日曜学校のベルさんのお祈りが とっても長くて退屈だったから、
外を眺めて空想にふけっていた」 とアンは答えます。

窓から見える『輝く湖水』の風景が、あまりにも美しく 夢のようで、
「ぞくぞくっとして、思わず「神さま、ありがとうございます」と、二、三度口走ってしまったの」
と。

グリーン・ゲイブルズへ来るまで、お祈りなんてしたことないと言って、
マリラをぞっとさせたアンですが、
『赤毛のアン』の中では、とても頻繁にお祈りを唱えています。

マリラが考えるような、たとえば「主の祈り」を唱えるような、
ひざまずいて、重々しく神さまに何かを述べるようなお祈りではなくて、

美しい世界と、自分の喜びが調和した時、
神さまに 自分の喜びや感謝の気持ちを、そのまま語りかけるような、お祈りです。


この11章の中で、アンは
牧師さんのお説教が長ったらしく退屈だったこと、
ベルさんのお祈りを、
「神さまは遥かかなたにいらっしゃるから、
お祈りしても届かないんじゃないかと諦めているんじゃないかしら」
と感じたことを、
素直にマリラに話しています。
呆れつつ、叱らなくてはと思いつつも、マリラは自分も、そんな風に長年感じていたことを、
認めざるを得ないのです。


教会へ行くことは 信徒の義務である、とも言えるのですが、
お祈りをすることは、形ばかり教会へ行って、礼拝やミサに参加することとは、
別のことです。

神さまをどのくらい、身近に感じているのか。
いつも隣にいて下さり、語りかけ、愛や恵を注いで下さっているのを、
本当に感じているかしら?

“神は
遥かかなたの空にいて、一方的に、「ご自分の楽しみのために」人間に試練を与える存在”
ではなく(この当時の長老派は、こんなふうに考えている人も多かったようです)、
または、
“神が与える試練を、ひたすらに受け、じっと耐えるのが人間”
でもなくて(こんなふうに考えている人も、多かったようです)、

贈り物をたくさん持って、いつでも扉をノックして下さっている、
それが神さまなのです。
受け取ろうと思ったら、世界は 小さくても大きな喜びをもたらす美にあふてれいる!
アンはその喜びをたくさん受け取り、小さなお祈りで感謝を表しているのです。


感謝や希望を述べること。
あるいは、不安を打ち明けること。
不満をぶちまけること。

神さまに対して いつも自分を素直に表現することが、お祈りの本質であると、
わたしは思っています。
『赤毛のアン』は、“信仰・希望・愛”という聖句を、
特別な、宗教的な表現なしに、理屈抜きに、
わたしに教えてくれた本でもありました。
by patofsilverbush | 2014-10-06 10:28 | ferrbirds赤毛のアン

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