『ロイド老淑女』

眠りについていたものたちが、生き生きと目を覚ます、
喜びの季節。
そんな春を、毎年 やりきれない気持ちで過ごす、
ロイド老淑女。

わたしは、モンゴメリの描く「老婦人」の話が
ロマンチックなラブストーリーと同じくらい、大好きなのです。
年を重ね、人生の豊かな経験を積んだ、
寛容で、慈悲深く、奥行きのある老人といえば、
モンゴメリの場合、「おじいさん」であることのほうが、多い気がします。
どちらかといえば 偏屈だったり、
内に秘めた情熱を誰にも知られることのない、
平凡だったり、貧しい暮らしをしていたり、
長年のうらみを抱いていたり・・・
することの多い、
モードの「老婦人」たち。

そんな「老婦人」たちのお話の中で、
これは一番好きな短編です。



金持ちで、村の名家のお嬢さんであったにもかかわらず、
今ではたいへんなケチで、教会へも足を運ばず、
人目を避けて暮らしている変わり者、
と 村人たちから思われている、ロイド老淑女。
実はたいへん貧しく、
三度の食事にも事欠くありさまだということは、
誰も知らないのです。


教会へ行かないのは 
献金のためのお金すらないから。
かつては美しく、ファッションリーダーであったのに、
母の古着を直しなおし 着ている姿を見られたくない。
一日に二度しかできない食事、
しかも、数枚のクラッカーやなにかで 飢えをしのいでいるだなんて、
誰にも知られたくない。
そんな意地や、見栄から、
誰にも心を開かず、貧しさと寂しさに長年耐えてきた 老淑女にとって、
ものみな花開く、生き生きとした歓びにあふれた春は、
ことさらにやりきれない季節でもあったのです。


『彼女には愛するものがなにもなかった。
これこそ人間にとって もっとも不健全な状態である』


美しい服や、食べるものがないということ。
そんな生活の表面的なことではなく、
彼女の不幸せの本質を、モンゴメリはこう表現しています。

その、美しい春のある日、
老淑女は、村のある家庭に新しくやってきた 音楽教師の少女を見かけます。
見覚えのある、なつかしい面影。
彼女は、ロイド老淑女のかつての恋人、
人生でただ一度愛し、つまらぬけんかで失ってしまった恋人の 
娘だったのです。


もし彼と結婚していたら、自分の娘であったかもしれない。


そんな思いから、老淑女は、
貧しいながらも、自分にできる精一杯の愛場を込めて、
彼女の生活を楽しいものにしたいと、
秘密の贈り物を与え続けます。
小さな花束や、かごに摘んだベリー、
自分が飢えて死のうとも、後生大切にしていた、家宝の壺を売って、
ドレスを贈ったり、
「父親のものは、なにも持っていない」という娘の言葉を聞いて、
なによりも大切な思い出であった、詩人の恋人から贈られた、
自費出版の 小さな詩集を贈ってしまったり。

送り主は自分だと名乗ることもせずに、
老淑女は、娘にありったけの愛情を捧げるのです。




キリスト教でよく言われる、「自己犠牲」の精神。
自分の利益や 損得はかえりみず、誰かのために尽くすこと。
日本人の感覚から考えると、なんとなく、
自らを犠牲にして他者のために!という、
つらく、重苦しい、
悲壮感の漂う美談(-_-;)のようなイメージがありますが、


モードの描く「自己犠牲」は、
犠牲とは 本当はそんなに苦痛なことではないということを、
わたしたちによく教えてくれます。


よろこんでハイハイと言いなりになれる事では、もちろんないのです。
自分のしたいことを我慢して、誰かのために時間を使うことや、
自分のほしいものを我慢して、誰かのためにその分まわすこと。


「犠牲」を払おうと決めるまでの、
自分の欲望との葛藤や、損得勘定は、きっと誰にだってあるのだから。
でも、そこを超えたときに、
払う「犠牲」は、義務感も何もなく、
ただ単純な喜びや 満足に変わるものなのです。
自分がそうしようと 決めたことを、実行するから。
誰かに強いられたことではないから。
良心に従って行動することは、
苦痛ではなく、喜びを伴うことで、
そこが“神様のみ心”が働いているのだなぁ!と思う、ゆえんです。
だって神様は、わたしたちに
幸せと、喜びだけを与えたいと思っているのだから。
もう、あふれるばかりに。



貧しさゆえ、
その愛しい、家庭教師として働く 貧しい娘に、
自分が何をしてあげられるのか、
見当もつかず、ロイド老淑女は神に祈ります。


『あの娘のために、わたくしにできますことを
なにか考えつかせてくださいませ。
なにか わたくしにできる、小さな__小さなことを
思いつかせてくださいませ』


美しい、お祈りの本質というべき祈り。
神さまはその祈りをかなえ、
ロイド老淑女の春は、若い喜びに満ちていたころと同じように、
「ふたたびいとしい、美しいものになった」のです

『愛がもう一度、老婦人の心によみがえり、
飢えた魂が 神の食べ物というべきその愛を 豊かに味わったからであった』



美しい春、五月からはじまり、
実り豊かな十月へと、移りゆく物語。
最後に老淑女は、最大の「自己犠牲」を払い、
最大の「愛」の豊かさを受けることになります。



『神と人とは 程度の差こそあれ、
種類は違わぬ、同一物ではなかろうか?』

与えるものが大きいほど、得るものも、また大きい。




プリンス・エドワード島の 美しい自然の描写とともに、
言葉のひとつひとつを じっくりと味わいたい、愛の物語です。










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Commented by miwako8 at 2016-03-25 00:01
これこそ!
私がモンゴメリの短編でナンバー1に選ぶ作品です。
読むたびに泣きます。
いま記事を拝見しているだけでも泣きそうでした(笑)

大抵、この短編を読むときには、わざわざ涙します!
それは、ストレスや多忙で感情がうまく動かなくなった時に読み返して、涙を流してリセットできる(自分を取り戻す)という便利な機能があるからです(笑)

いろいろな面で重たいこの作品は、モンゴメリも書いている時には、かなり力が入っていたのだろうと推察。
ああ、良い作品だわ~。
Commented by patofsilverbush at 2016-03-25 14:24
> miwako8さま
この作品、好きなあまり、わたしもいつ出そうか、かなりタイミングをみてしまいましたよ!なんとなく書き始めるのでは、何も書けないくらい、いろんな言葉が出てくるようで、でも軽はずみな言葉ではいけないなぁ、と。
本当に素晴らしい短編ですよね!長い作品を読んだ時くらいの重厚感と、満足感があります✨
動かなくなった感情を取り戻す・・・まるでロイド老淑女のようではないですか!
by patofsilverbush | 2016-03-22 10:11 | ferrbirds赤毛のアン | Trackback | Comments(2)

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