カテゴリ:心( 146 )

指導??

わたしがバレエを習っていた30年前、高校生の頃。
(わ!もうそんな昔のことなのか!自分で書いていてびっくりしました!)
たぶんマックスで自我の塊であったり、
そのくせ自信がなくて「自己」というものがまったくなかったので、
自己主張すらできなかった頃。
バレエ教室の先生は、わたしたち生徒にとっては「絶対」の存在でした。

理不尽に怒られるのは日常茶飯事で、
「理不尽だよね」と愚痴は言い合っても、
とても意見できるような関係性はありませんでした。
その状況が理解できない彼氏に
「理不尽に怒られてるなら、ちがいま~すって言えばいいじゃん!と言われた!
言えるわけないじゃんねぇ?」
という先輩の言葉に、深くうなずいたことも、今では懐かしい思い出です(笑)。
そういう環境にいないとわからない、理解できない空気感って、きっとあるように思う。
“学校の先生”とは明らかに違う絶対さ。
もしかして同じ時代、運動部で「しごかれた」方は、
同じような状況や気持ちを経験されているのかもしれません。

もちろん、わたしにとってバレエの先生は理不尽なだけではなく、
素晴らしいこともたくさん教えて下さった恩師です。
やさしかったことも、たのしかったことも、もちろんたくさん。
ただ、
「理不尽に怖かった」ということが常態化していたため、
理不尽で怖い、とは思っているにも関わらず
「それが物事を極めるために必要な指導だ」と、割と最近までふつうに思っていました。
「よく頑張ったよね~!」と、当時の自分を、
練習内容のいかんにかかわらず、「怖い指導の下でもやめなかった」という一点だけで、
褒めたい気持ちでいました。いや、いるかな。褒めたいかな(笑)。

最近になって当時の仲間たちと話した時、
「怖かったよね~」
「恐怖政治だよね~」
「あれじゃ委縮しちゃうよね~」
と思い出話で笑いあったのですが、
ああ、そうか、わたしは委縮していた、と
こんなにこんなに時間がたった今、ようやく当時の自分を理解できたように思います。
それが普通だったから、委縮している状態を、ふつうのことだとしか思っていなかったようです。

バレエに関してだけではなく、
今まで自分がいろんなことでいかに委縮していたか、
理解できる機会が多かったのも、ここ最近のことです。
委縮しなくてもいいんだ!と思ったときの安心感といったら!


時代が違う、
今の子はそんな練習にはついてこない、
と よく言われるけれど、
たしかに委縮させたところでいい結果は生まれない。
失敗を恐れず、伸び伸び思いっきりやっておいで!という言葉は、
委縮していない精神でないと理解できないことです。
人を「鼓舞させる」ことは難しい。
どういう指導のもとであったなら、わたしは自分を鼓舞できただろうか。
と、今さらながら考えてしまう連日のニュースです。
日大芸術学部、憧れてたんだけどなぁ・・・。







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by patofsilverbush | 2018-05-24 17:07 | | Trackback | Comments(0)

ログ

中学生の息子が毎日書いている、学校の提出物「自分ログ」。
いわば連絡帳と一言日記が合体したようなもので、
明日の時間割を学校で記入し、
宿題よろしく自宅でその日の出来事を書いて翌日、提出するというもの。

毎日コメントを書く先生も大変だと思うのですが、
教科ごとに先生の変わる中学校では、
担任が自分のクラスの子供たちの様子を知るためツールなのかな。
もしかしたら子供たちも、なかなか言えない悩み事を相談できるツールになるのかもしれません。


さて、悩み事とはいまだ縁遠い、お気楽な息子のログはといえば、
コメントというより誤字・脱字を直されている様子は、
まるで赤ペン先生から返ってきた答案用紙のよう・・・(溜息)。
ある日曜日のログ。

『今日はなにもすることがなかったけど、楽しかった。
ハッピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー』

このきわめて彼らしい日記、わたしはグー!!と思ったのですが、
後日、先生のコメントを見せてもらったら、
「こら!この書き方はダメです」
と記されていました。

あちゃちゃ。
なんでダメ?



『それは爽やかな朝であった。
髪もくしけずらず、相変わらず台所の小窓から這い出てきた太朗の姿を見た人は、
一向に爽やかな光景とは思わなかったろうが、太朗の自覚の中では、
それは心躍るような朝であった。
理由はないのである。恋をしているわけでもない。何か幸運が舞い込んだというのでもない。
それでもなお、青春には、そうした、
野放図に輝いて見える朝というものがあるのである』


と、曽野綾子さんの『太朗物語』にも、あるのになぁ。
(ちなみに、太朗が“台所の小窓から這い出してきた”のは、
自宅アパートの鍵を閉めたら、鍵の不具合で開かなくなったからです)



今、遊びから家に戻ってきたらしい近所の子が、玄関でお母さんに言う声が。
「助けて~。わたし今、ゾンビに追われてるの」と!
なんて楽しそう。
説明できない、するまでもない、楽しいコトってあると思うのだけど。







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by patofsilverbush | 2018-05-21 14:03 | | Trackback | Comments(0)

今いる場所

一歩ずつ、足を運んで歩いてゆくように、
自分が感じることも、また一歩ずつです。

神様というのはどういう方なのか想像した時に、
わたしが思うことのひとつは
球体を、球体のままで見られる視線や感性をお持ちの方ということです。

視野が狭いわたしなどは、自分が見える範囲でしか物事を考えられないけれど、
地球の裏側が見えないと
日本とはまったく違う価値観、世界観が広がっていることに気づかず、
ますます視野や考え方が偏狭になってしまいがちです。
人に対しても同じことで、
自分だけの判断で、見えない相手の「反対側」を鑑みようとしなくなる。
見える範囲、わかる範囲のことだけで、
相手を判断したり批判したりして、
「自分には見えもしていない」ことに思いも及ばなくなってしまう。

私が思う神様の視線というのは、
その、地球の裏側の部分にあたる、
普通にしていたら見えない部分、見せない部分までも、
実に公平公正な、まっすぐな視線で「わかる」ことができるのではないかなぁと。

それは実は、自分自身に対しても言えることかもしれません。


一歩進むと見える景色が変わるように、
自分の外見も内面も、変化している。
一足飛びに山の上から見える絶景が見たいと願っても、
今、いる場所からは、
今、いる風景しか見えないのです。


だから、自分がどの段階であっても、
そこから必要な学びや悟りがあるのだ、
そこを経ないことには次の景色は見えないのだなと、
実感するようなここ数年。
人が何と言おうと、なんと思われようと、
それが自分の段階であるならばそれでいいのだと、ようやく思えるようになってきて
また次の景色が見え始めています。

一足飛びに進んだわけではないので、
劇的にちがうわけではない。
さっきの場所と大して変わらないけれど、
一歩だけ、前に進んだ景色。
今いる。この場所。
とてもとても大切な場所。
そこから自分なりに、何かを感じたり、考えたりして得た「何か」は
「その時の自分」に必要なこと。
神様はけっして先を急がないし、わたしがわたしのペースで、
歩いていくのを見守っていてくださる。

ひとそれぞれ、「今」いる場所が、
それぞれにそのひとにとって大切な場所なのです。










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by patofsilverbush | 2018-01-19 15:34 | | Trackback | Comments(0)

チャレンジすること

人は、誰かのお役に立つために生きている


と、いうようなことを、
漠然と「理想的」な生き方のように思っていて、
思ってはいるけれど、
自分勝手に生きている自分だという現実を前に、
それはそれで、大事なことだよね、とも思ってしまう偽善っぷり。

そんな昨年でしたが(笑)、
誰かの役に立つ、ということを、
なんとなく、自分が実際にはできもしないような、
漠然と大きな範囲で考えていたのかもしれないなぁ
と、このところ感じています。

世界的な規模で「困っている人の役に立ちたい」と思ったとしても、
なかなかたいへんなことですよね。
もちろん、世界的な規模で活動されている方はいらっしゃって、
素晴らしい!と思うのだけれど、
そうじゃなくても、
自分の身の回りのことだって、別にいいわけなのです。


なんのために生かされているのか、
と考え出すと、
明確な答えや使命がはっきりわかることは私にはなくて、
それがダメなように感じてもいたのですが、
それすらも、
もう「自分が、自分が」という自己主張の意識のような気がしてきたのです。

ああ、自分を捨てるって、
そんなふうにすら考えずに、
目の前のことに、心を込める事であるのかもしれない。
家事なら家事を、
子どものことなら子どものことを。
ただそれだけで、いいのかも。

わたしに何ができるのかと思うことすら、傲慢なことであるのかも。


自分が気持ちいい、ということではなくて、
気乗りしないことや、いやな場面であったとしても、
気持ちよく取り組むこと、気持ちよく働くこと。
シンプルにそう生きる事そのものが、豊かな気がします。

シンプルだけれど、難しい。
もうちょっと深堀しつつ、チャレンジです。
今年からはエレガントに生きる!を目指したいものです。


今年は「火」の気が強く、
目標を明確にすると、運気も上がり、願いもかないやすくなる!?そうですよ。
占いに頼る方ではありませんが、
そんな記事を読んだので、ちょっと目標を明確に(これでも)してみました(笑)。














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by patofsilverbush | 2018-01-17 14:58 | | Trackback | Comments(0)

簡素

きのう、夫と車で外出しましたが、
川沿いの道を信号で停止したさい、ふと車窓を見ると
川べりの木の枝にカワセミが♪
なかなか会えない鳥だけに、たまに見かけるとオクサマのご機嫌もアップします⤴✨

きのうも今朝もぐっと冷え込み、
朝の散歩は日陰の地面を見ると、霜がびっしり!
寒さも本格的になってまいりますね。
寒いと朝の始動がぐずぐずになりがちなのですが、
それでも、お気に入りのストールを使えるという楽しみもあり、
よく晴れた朝の富士山はとても大きく、雄大なのでした。
あんなに大きな山が、冬以外は見えなくなるなんて、なんだか不思議と毎年思ってしまう。

明日は雨予報でしたので、今日の暖かい日差しを有効活用。
フカフカのお布団とポカポカ湯たんぽで、今夜もゆっくり眠れそうです。
なんという幸せ^^♡


大切なものは、この世を去ってゆく時には何も持っていかれない。
わたしにとって大切なものも、
残った人にとっては意味のないもので。
だから、今、手にある大切なものは日々、じっくり味わいたい。
執着しないように、大切に。

むずかしくもあり、いさぎよくもあり。
「簡素」に生きようという目的を、最近ちょっと見失っていました。






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by patofsilverbush | 2017-12-07 14:18 | | Trackback | Comments(0)

手をつなぐ

今朝、教会へ行ったところ、
駐車場から教会までのアプローチで 顔見知りでスペイン人のシスターと
ちょうど同じ時間に行き会いました。
お勉強を見ていただいていた日本人のシスターが 修道院を移動になられてから、
抱えている気持ちをお話しできることが、なかなかできなくなってしまったのですが、
修道院に出入りしていてお顔見知りで会ったことから
息子のことから端を発した、わたしの両親をめぐるいろんな思いを、
一番気持ちが高ぶっていた時に、話を聞いていただいたシスターです。

いつも私の顔を見ると
「元気?あなたが元気だと嬉しいわ」と声をかけて下さるのですが、
寒かった今朝は、おはようございますのあいさつの後、
わたしの手を取って
「あら!あなたの手、あたたかいね!わたしはいつもは暖かいけれど、今朝は冷たいのよ」
と。
そのまま手をつないで教会まで歩きながら、
「元気?あなたが元気だとうれしいよ」と、いつものお言葉。

息子とはお恥ずかしながら、まだ手をつないで歩いていますが^^;
お友達と手をつないで歩くことは、この年ではなかなかないことですよね。
すご~く仲良しみたいに手をつないで歩きながら、
最近の気持ちをお話したら、
「よかった!神に感謝ね!神様は働いてるね!」
と言って下さいました。

もちろん、いつも「神に感謝」!
そして 信仰の入り口で、はなはだ頼りなくうろうろしている私を、
いつもそっと、押し付けがましくなく、見守ってくださるシスター方に感謝!

つないだ手が、子どもみたいに嬉しい朝でした。








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by patofsilverbush | 2017-11-17 15:12 | | Trackback | Comments(0)

羅針盤

子供の成長を見ていると、
すくすく、という言葉が表すように、
やっぱり空(上)に向かって伸びてゆく印象がありますよね。
伸びるスピードはもちろんまちまちで、
「お、急成長!?」と思う瞬間もあれば(親比・笑)、
「なんだかいつまでもバブちゃんだよ(←かわいくほほえましい)・・・」と思うこともあるし
「おいおい・・・」と怒り心頭の日も、まあ、よくありますが^^;
いずれにしても、
ゆっくりでも、芽を出して、葉が開いて、つるの先を伸ばしてゆこうとするエネルギーがある。


一方、大人の成長を思うとき、
私の場合、そのイメージは
上へ向かう、上昇志向というより、
深く、広く、
というイメージです。
高く伸びあがるのではなくて、
ある知識や思考、感情を より深めてゆく。
空高く羽ばたくよりも、遠くまで飛んでゆくようでありたい、と。
前後左右、上も下も無限に広くて、
目指す場所ははるか遠くにある。
鳥のように羽ばたいてゆくときもあるし、
「丘を越えて はるかかなたへ」と歩いてゆくようでもある。



それはきっと個人的なイメージで、
ひとそれぞれ、自分のいる場所、生き方の指針を示すイメージは異なるものですよね。
自分がいる場所について、それはどんなところなのか、
目指す方向があるのならば、どんな場所にむかっていこうとしているのか、
漠然としたイメージででも 心の中に持っていると、
それが日々の羅針盤になるように思います。








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by patofsilverbush | 2017-10-25 08:44 | | Trackback | Comments(0)

その人らしさ

先日、長野へ行ったとき、
新幹線に乗る前に駅の構内で 手土産の芋ようかんを買い求めました。
舟和の芋ようかんとあんこ玉、息子もわたしも母も好きなのですが、
祖母に会いに行った際、
「おばあちゃんも、やわらかいから食べられるかな」と思い、
少しだけ持って行ってみました。

すっかり食が細くなっているようでしたが、
「食べてみようかしら」と言うので、
フォークで小さく小さくした一口を 口に入れたところ、
「芋ようかんは、昔っから好きじゃなかったのよ、甘ったるくて」と一言。

わぁ、久々に聞きました、おばあちゃん節!


これまた昔っから、祖母はそんな人でしたので、
そんなこと言われたくらいじゃなんとも思わないのですが(苦笑)
いい意味でも、悪い意味でも、「その人らしい」ことってあるんだなぁと思った次第です。





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by patofsilverbush | 2017-10-24 14:14 | | Trackback | Comments(0)

自分の意見を持つ

もともと、政治などまったく興味なかったわたしが、
まがりなりにも「台風がくるらしいから期日前投票してこよう!」なんて思うようになったのは、
受洗前にも、受洗後にも、
お勉強を教えていただいていたシスターのおかげです。
受洗前には「キリスト教とはなんぞや」を教えていただきましたが、
受洗してからも、聖書を読みつつ日々のあれやこれやを「わかちあう」時間を
継続して作っていただいていました。
聖書やキリストに関わらず、なんでも話題になるわたしたちの会話の中には
子育てや死、子供の頃の思い出、などなどが散りばめられ、
政治の話はそのひとつでもありました。

といっても、
シスターに教わったのは政治についてではなくて(笑)
知らないですましていることや、自分の意見がないということは、
それについて会話すらできない、
ということです。


興味をもって、ニュースを見ること
わからない、なりに、今起きていることについて、自分の考えを持つこと。
詳しく知りたければインターネットというものもある時代です。
物事について、
とにかく自分なりの意見を持つことの大切さを、わたしはシスターに教わりました。
あたりまえみたいなことだけれど、
自分に興味のないジャンルに関して、
人って「わからないから」という言い訳のもとに、
無知のままでいることが多いんじゃないかな。

ファウストじゃないけれど、この世の「すべて」を知ることはむずかしい。
けれど、
せめて自分の身の回りで起きていること、
自分に関係のあることくらいは、
自分の意見を持っていたい、と思うようになった。


民主国家といわれる日本だけれど、
上から与えられたものを「はい」と受け取るだけの国民性。
富国強兵・軍国主義も、
民主主義も、
自分たちで主張し、勝ち取ったことは、歴史上ないのではないでしょうか。
それが果たして、真の民主主義といえるのか・・・。


誰か、上に立つ人がどうにかしてくれる、
と思うのはやめて、まずは自分の意見を持つこと。
(そのためには、対象を「知ろう」とすること)
政治についても子育てについても、そして「自分」というものを知る上でも、
それが何より大切なことだと思うようになりました。
今だって、政治に詳しくなったわけではないけれど、
とりあえず、意見はもってる!ってことが、きっと大事!




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by patofsilverbush | 2017-10-20 16:00 | | Trackback | Comments(0)

赤いリップ

廊下から居室へ顔をのぞかせたとき、
わたしの顔を見たとたん、涙を隠すために毛布に顔を隠した祖母は、
わたしのつけていた赤いリップに涙したのではないかと思うのです。

「やっぱり若い人は、赤い口紅つけてるのね」
寝ていた枕元に近寄ったとき、
そう言って私の顔を見つめたから。

グループホームで入居しているのは ご高齢の方ばかり、
介護士さんや調理師さんはいるものの、
もしかしたら華やかな色彩はあまりないものだったかもしれないし、
その赤いリップや、
着ていた紅葉のような茶オレンジ色のニットは、
祖母の目に、とても華やかに映ったのかもしれません。
そしてそれは、
ずっと東京で暮らしていた祖母が、
「こんな田舎」へ「連れてこられて」失くしてしまったと思っている、
若さや、なんでも自分でできる身体や、お買い物の楽しみなんかを
思い出させたのかもしれません。


毎日ご飯が食べられること、
誰かのためにちょっとしたことをしてあげられること
誰かが自分のために、何かしてくれること。
お天気がいいことや、いっぱいのお茶がしみじみ美味しいこと。
季節がうつろうこと。
幸せに生きることはとても簡単なことですが、
祖母にとっては「幸せ」な気持ちはもう、どこにあるかさえわからないみたい。
それは認知のせいではなくて、
いつも誇りであった若々しい外見が、高齢のせいで失われたと思っていること、
東京でない場所に住まざるを得ないことや
華やかな場所へお出かけすることのかなわない状況が、
ただただ許せなく、不幸なのだと思います。
そして「自分は不幸なのだ」と思っていたいのだと思います。


ハピネスは自分の心からしか生まれないので、
祖母が不幸を嘆いても、誰もなにもしてあげられない。
魔法使いではないので若返らせることはできないし、
どこかへ連れて行ってげることはできても、楽しいと思うかどうかは
祖母次第。
そして周りの人が何を「してあげ」ても、
祖母が楽しい、ありがとうと思うことはないのでした。
それが彼女が幸せでないことの、一番の理由なんじゃないかな。


祖母とはいえ、子供の頃から孫をかわいがるタイプの人ではなかったので、
わたしにとっては便宜上「おばあちゃん」とは呼んでいるものの、
だいぶん心の距離の遠い人です。
わたしが行くことで、喜ぶかどうかもよくわかりませんでしたが、
たぶん、喜んでくれたようなのでよかったと思います。
何もしてあげられませんが、
あかるい気分になってもらいたくて、意識してつけた赤いリップや明るい色の服が、
もしかしたらおもてなしになったかもしれません。






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by patofsilverbush | 2017-10-13 15:17 | | Trackback | Comments(0)

日々のあれこれを綴ります


by anne
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