カテゴリ:心( 147 )

心のお薬

つい先日、ちょっと気持ちが重たくなることがありました。
起こった出来事そのものは、たいしたことではなかったのだけど、
あ~なんだかなぁ・・・なんて思っただけだった直後から、
しだいしだいに心が重たくなってきて。
もやもやなんてものじゃなく、ずしんと重たい石のような気持。
しまいには頭痛までしてくる始末で、
とりあえず薬を飲んだものの、頭痛薬は、ココロのお薬ではないですもんね。


こんなときには、やっぱりSMAP!
ということで、久しぶりにスマスマ最終回の録画を見ました。
一緒に歌って踊って、あ~やっぱり元気のもとだなぁ♡って(笑)。
解散後も、みんなふつうにテレビに出ているし!中居くんのラジオも聞いてるし!
と思ってはいたのですが、
なんていうか、個人的に中居くんのファンとはいえ、
やっぱりSMAPのエネルギーは違うのですよね。
もう一発で、重たい気持ちを飛ばしてくれました。

あまり薬は飲まない方ですが、

ちょっとエネルギー不足を感じる時や、落ち込んだとき、腹立たしいときにも。
身体のお薬より、心のお薬のほうが重要かつ、必需品です。
自分なりにいくつか持っていると、いいですよね。








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by patofsilverbush | 2017-05-17 08:57 | | Trackback | Comments(0)

生きていてもいい

誕生日の朝は、家族がそれぞれの場所からメールをくれます。
実家の両親や妹たち、夫のお母さん。
あれ?わたし、何歳だっけ?といつも思ってしまうくらい、
年齢って気にしないのだけれど、
40代半ばになった今年も、お祝いしてもらうのは嬉しい44歳です(笑)。
お友達から素敵なプレゼントをいただき(どうもありがとうー♡)
入っていたサシェを引き出しにしまったら、
翌朝、開けたときに尋常ならぬいい香りがして♡
自分でいれたのに、びっくりしたくらいです。


変な話かと思われるかもしれませんが、
いつも「死」ということを隣において生きています。
あ、死にたいと常日頃 思っているということではなくて、
誰にでもやってくる、避けようのない、予定もできない事柄として。
だから割と、「生きる」「死ぬ」ということに対して、淡白なところがあります。
もちろん、病気で余命何日ですよ、とある日言われたら、
きっと頭が真っ白にはなると思うし、
「死」自体に対する恐れはないにしても
(その前の、苦しい・辛い思いとかは最高にイヤですが!)
いざそうなってみたら、きっと心残りや後悔があるんじゃないかなと思います。

なるべく、今日、感じることは今日、感じたいとは思っているけれど。

信仰があることと関係があるかはわかりませんが、
なんとなく昔から、生きにくい「この世」よりも
肉体を持たない精神だけの「向こう側」のほうが、生きるのに楽なような気がしたことは
事実です。
むこうに行きたい、というよりも、
帰りたいなぁという感じでしょうか。
だからあんまり、「浮世の楽しみ」みたいなことに未練がないのかもしれませんね。


毎日ハッピーに、くったくも憂いもほとんどなく過ごせていて、
感謝すると同時に、
いつ「死」がやってきてもいいと思って生きているけれど、
誰かがお祝いしてくれて、大事だと思ってくれる、
ということだけで、それが生きていてもいい理由なんだなぁ
と、近頃、よく思います。
自分は何のために、何をするために生きているのだろう??などと、
しかつめらしく理屈をつけようとしなくても。


日々、大好きな人たちと共に過ごせることに感謝。
いただいている時間を一生懸命に生きようと思います。













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by patofsilverbush | 2017-05-11 09:06 | | Trackback | Comments(0)

いつも神様と共に

『赤毛のアン』が映画化されましたね。
といっても、おそらく見に行くことはないであろうと思うのですが・・・
(だって~、マシュウにひげがないんですよ!?)

幾度も読み返すアンの物語。
わたしにとっては、神さまの愛を描いた物語でもあり、
近年になってますます強く、そう感じるようになってきました。

「アンがやってきたのは、神さまの思し召しだ。
全能の神は わしらにあの子が必要だとご覧になったのだよ」
とマシュウが言うように、中年・初老の独身兄妹のもとへやってきたアン。
処女のままイエス様を授かったマリアを思わせますし、
マシュウの馬車でやってきたアンが 初めてグリーン・ゲイブルズを見たときの
  
  「 家の上では、雲一つない南西の空に
    水晶のようにすきとおった大きな星が、明るくきらめいていた。
    あたかも二人を家へ導き、将来の幸福を約束する光明のように 」

という描写は、当方の三賢者を導いたベツレヘムの星を思わせます。


驚愕の受胎告知をされたマリア様は
「わたしは主のはしため。お言葉通りになりますように」と
その事実を受け入れますが、
マリラのほうは驚愕を驚愕のまま受け止め、
「主の下さったもの」を、わたしには不要です!と送り返そうとするところが、
いかにも人間!で笑えます。
神様の思し召しであることは、いつもあとになってみないとわからない。


アンが完璧な女の子であるわけではないのですが、
「生まれながらに光の子」だと、モンゴメリは書いています。
主のみ心をこの世で体現しようとするわたしたちは、“光の子”であるという、
聖書の言葉で。
お祈りをしたことがない、といって、これまたマリラを驚愕させたアンだけれど、
「お祈りするときはなぜひざまずくの?
わたしなら一人で深い森の中に入っていき、どこまでも青い青い空を見上げて、
ただお祈りを心に感じるわ」
という言葉は、祈りの形(ポーズ)ではなく 本質をついていますし、
「神様がご自分の喜びのためにつくられたような朝」というような、
この世界の美しさに 神の臨在を重ねた歓びの表現も よく見られます。

少女の成長の物語。
少女を育てる二人の成熟の物語。
という枝葉を茂らせて、モンゴメリが描きたかったのは、
「神の愛」ではなかったかと思うのです。
神は人間に試練を与えたり、厳しいまなざしで人を裁き、罰を与える存在ではない。
人間からは遠い存在などではく、
もっと身近におられ、いつでもそばで わたしたちの幸福を望んでおられるのだ。
ということ。
「神様には、いつ、どんな場所でお祈りしてもいいのよ」
(教会へ行くことだけが、祈ることではない)
と娘たちに教えるアンに、
神様と共にいつもある生き方を、わたしも(たぶん子供の頃から)教わってきたように思います。
エピソードを羅列して、物語の表面的な感動だけを描いても、
アンの物語は完成しないような気が、してしまうのです。

何度読んでも新たな発見がある『赤毛のアン』。
最近また読み返しています。







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by patofsilverbush | 2017-04-30 10:36 | | Trackback | Comments(0)

常識的な価値観、は、ときに窮屈

合気道は人と競うことのない武道、というところが好きなのですが、
義父はどうしても空手とごっちゃになるらしくて、
「がんばってオリンピックに」とか「(試合で)優勝したら」と、
それはそれはしょちゅう言っています。
苦労して家族を養ってきたという自負もあるので、
「がんばって目に見える成果を出す」ということが大事みたい。
「子供たちが全員結婚して、どこのうちにも孫が生まれて、
我が家に遊びに来てくれる、こんな幸せなことはない」
と言ってくれるのはいいのですが、
「子供が結婚できないうちだってあるんだから」
「孫ができないうちは不幸だよ」
「こんな幸せになりたかったら、おまえもがんばれ」
と、
結局は他人さまと比べて、自分の基準で幸せ度をはかり、
その基準を人にも押し付けてくるにすぎません。
自分がいかに、人様の幸福を願い、人様に尽くしているかを語ってやまないし、
そんな自分がいかに幸福を築いたかの自慢話のアピールを常にしていないと気がすまない。
とても常識的な幸福の測り方なんだろうと思うのですが、
とてもとても窮屈です。

きのうも、義母が手作りしたかわいいブローチを、息子が「わぁ、すごいね!」と
胸に付けたところ、
「男がこんなものをつけたらダメ!もうはずしてお母さんに渡しなさい」と
声高に言いつのり、
義母が「べつにいいじゃないの」と言っても
「いやいやお母さん、ダメなものはダメなの!男がこんなものをつけるのはダメ!」
と、滑稽なほど大騒ぎするには、笑ってしまいました。

こうあるべき姿、
その結果としての成果。

誰にでもあると思うのだけれど、
価値観の幅はなるべく広げたいとは思います。自分にとっても、周りの人にとっても。

いつもモデルさんのようにお洒落で、インテリア雑誌に登場するような素敵なおうちに住み、
仕事もばりばりしているのにお料理上手で、ホームパーティーなんかもお手の物。
そんな自分とか、
成績優秀、スポーツ万能、正義感が強くて自分の意見もきちんと言えて、
かつ、人の気持ちも考えてあげられる優しさをもつ。
そんなうちの子とか、
いうこととはまったくかけ離れた自分であり、うちの子であるので、
けっこう早い段階で比較をやめましたが(というか、あきらめた、というのが正解か)、
そうでなかったら、けっこう劣等感を刺激されてつらかったかも、
と思うくらい、
なんとなく子供のことを張り合ってくるお母さんというのも、けっこういるもので。

張り合って結果を出すのが、楽しいのかもしれませんね。

脱落してよかったと思う今日この頃です。











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by patofsilverbush | 2017-04-23 15:48 | | Trackback | Comments(0)

引退

長いこと続けてきた何かをやめるときって、
きっと自分の中で「一区切り」がついたときなのでしょう。

子どもの頃から21歳(だったか?)まで続けたバレエをやめたとき、
わたしの中にはものすごく「一区切り」ついた感じがありました。
アスリートみたいに「引退しよう」と思ったわけではなく、
ただ「やめよう」と思ってやめたのですが、
長い間には、やめたい!と思うことは何度もありました。
なんだかもう、バレエが好きなのか、嫌いなのかすら、自分でもよくわからなかった(笑)。
やめたからといって、他に何がしたいこともなかったせいもあり、
母や先生に「続けたら?」と諭され、ついうっかり続けてしまった、
というのが、もしかしたら本音なのかもしれませんが、

舞台が終わった後で
もっとこう踊ればよかった・・・
という悔いは必ず残り、もっと思うように踊りたい!という気持ちも、
やっぱり 確かにあったのです。
それが、ある時の舞台のあと、
きれいさっぱり悔いが残らず。
別に失敗もなく、会心の舞が舞えたわけでもなかったのだけど(笑)
どういうわけか、「ああ、もういいかな~」と思ったのですよね。

その先に、もっと追求できるものがある。
のも、わかっていました。
登ってきた山の途中、見晴らし台にたどり着いて、
ああ、いいながめ!と思う。
まだ先まで道は続いていて、歩き出したらまた険しい山道が続いている。
きっともっと素晴らしい眺めが広がっているのもわかる。
でも、ちょうど区切りがいいし、ここまででもう十分です、と思った。
満喫しました。と思ったのです。


傍から見たら「もったいな」かったり、「まだできるよ」と思われるのかもしれないし、
うん、続けてたら、まだできたと思う。
でも気持ちが続ける方に向かなかった。

やめたあと、ものすごい開放感があって、
「ああ、もうレッスンしなくてもいいんだぁ~」って(笑)。
うまくもなかったし、誰に期待されていたわけでもないのに、
なんだか重圧があったんだなぁと 今にして思います。
失敗しちゃいけないとか、続けなきゃいけない、とか。


誰かの引退会見をあまり見るもないのだけれど、
引退の報道があると、いつもなんとなく「引退」について考えます。










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by patofsilverbush | 2017-04-12 14:46 | | Trackback | Comments(0)

真夜中の贈り物

夜中にふっと目がさめると、
カーテンの隙間からあふれるほどの光が差し込んでいました。
翌日は雨の予報なのになぁ、月がでているんだ・・・と空を見ると、
ほぼ満ちた月と、
月のすぐそばにありながら、月に負けないほど輝く星が見えました。
ゆたかにふりそそぐ、静かな光に満たされて、
気持ちよくまた眠りについたのです。


数年前まで不眠気味だったことがうそのように、
けっこうぐっすり眠れる昨今ですが(笑)
ときどき夜中に目を覚ますと、いつもそこには、
ふだん見る事のない、豊かで美しい空が広がっています。
これをみせたくて起こしてくれたんだな!と思うくらい。



一人でながめた月が夢のように、
今日は予報通りの冷たい雨になりましたが、
大きな方からのあふれるほどの愛や、美しいもので、
今日の私は満たしていただきました。




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by patofsilverbush | 2017-04-11 14:51 | | Trackback | Comments(0)

見えてくるかもしれないものを待つ

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主のみ心をを思うとき、
このように生きよう、とか、
自分にできることは何であろうか、とか、
自分なりに考え、実行しようと志すけれど、
それすらも本当は肩に力が入っている状態なのではないかなぁ・・・
と、最近ぼんやり感じています。


何も考えずにただ漠然と日を過ごすのがよいということではなくて、
その日、その時、その瞬間を大切に生きるということは、
その瞬間を もっと肌や心でしっかり感じるということなのかもしれない。
「こうしよう」と思って「そのように務める」のではなくて、
いま、自分が「こうしてるんだ」「こう思うんだ」と感じること。
楽しいとか 嬉しいとか 喜んでるとか 悲しいとか 怒ってるとか
その時々そのままでいいのかもしれない。
当たり前みたいに思うけれど、案外、
感じることにブレーキをかけていたり、気持ちの大きさを過少に思っていることも
あるような気がして。


「私の罪をおゆるしください」と主の祈りで祈るけれど、
神様はいつも許してくださっていて、
本当は許していないのは自分なんだと思いました。

「わたし」という道具をお使いになって、主がみ心を実行されるのなら、
「仕事をするのは、あなたではなくわたし。
わたしが喜んで仕事ができるよう、あなたはリラックスしていなさい」ということ、のような。


どんなふうに自分が感じたとしても、
そこに神様がともにいてくださると感じるならば、
たぶん、芯の部分はすごくおだやかなんだろうと思います。



すごく、まだ漠然と。
今までの様に考えを詰めることなく、言葉で理解しようとすることもなく
ただ感じるように、ゆっくりと物の輪郭が見えてくるまで待っているのも、
新しい体験です。
見えないもの、見通せないもの、何が見えるのかわかっていないもの、
にもかかわらず、
なんだか明るくて透明感がある、不思議な気持ちです。
「清明」という季節、ご復活という季節にふさわしいあかるさです。









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by patofsilverbush | 2017-04-11 08:43 | | Trackback | Comments(0)

一目惚れするものって、今の自分かも

一目惚れしてしまうことはありませんか?わたしはよくあります。

といっても、人にではなくて、お洋服屋さんで(笑)。
「これが必要」「こういうのが欲しいな」という予定を飛び越えて、
もう見た瞬間、頭の中でリンゴンリンと鐘が鳴り響き、
「これはもう、わたしのために作られたもの!」と断言してしまうもの。
そんな服って、試着してみてもやっぱり我ながらしっくりくるし、
使い勝手や着回しが・・・などという、頭で考える心配をよそに、
ヘビーローテーションなスタメンになってくれることも多いものです。
なにより、それがクローゼットのハンガーにかかっていることの幸せ♡
扉を開くたびに、「きゃっ♡」と気分も上がるというものです。


一目ぼれした服の、「こんなところが好き♡」というのを、
ほかの人に熱く語ったり、または熱く語られたりする機会もなかなかないのですが、
たとえばスタイリストさんのブログの、
私服を熱く語られている記事を読むのも大好きです。
こんなところが魅力なのね、なるほど~!と。
だって、好きなものを人に説明している人って、楽しそうでいいじゃないですか?
こっちも楽しくなる♫

この春もそんな一目ぼれした服があり、(熱く語りたい!笑)
サヨウナラした服のあいたところに新しいものがやってきて、
引き出しの中が少し、今までとは違う雰囲気になりました。
明るい感じ。楽しい感じ。軽やかな感じ。
言葉にするとそんなふうな、それが「今のわたしの、しっくりするもの」みたいです。















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by patofsilverbush | 2017-03-18 16:25 | | Trackback | Comments(0)

友人セラピー

すごくエネルギーを奪われているな、
という付き合い方に、距離をおくようになりました。
相手の話を聞く。
話すべきセリフはすでに決められていて、そのセリフを言うように仕向けられることや、
相手が演じる「見せたい自分」を、すべて鵜呑みにするような「いい人」を求められるのは、
いい人でないだけに
心にとても負荷がかかる状態だったので、
距離を置くようにしたことは、自分のためによかったと思うのです。


が、
「距離を置くわたしって、冷たいかな」
「優しくないな」
と、やはり刷り込まれている “いい人”論が、自分の中でなかなかぬぐい切れずにいたみたい。
相手にとって都合のいい人でいるわたしが、「いい人」ってことなのか?
ちがうだろー!
と思いつつも。


友人たちとランチしながら、
それぞれに同じような経験をし、同じような心の痛みや憤りや疲弊感を抱え、
同じような状況を選択したみんなのざっくばらんな話を聞いて
うははと笑いあううちに(←けっしてしんみりした愚痴になることはないのが、いいところ!)
そんなに罪悪感を抱いて 自分を責める必要はないんだな
と思えた。


みんなと同じ!がいい
というタイプではないけれど、
共感できること、共感しあえることで、自分を肯定できることもあります。
グループセラピーってこんな感じ?なのかな?

だいぶん心が軽くなり、
ああ、案外、心に重たくあったものなんだなということに気がつきました。


ワタクシ同様、最近ようやくスマホに変えました!というメンバーも多く、
LINEのグループを作るだけで大騒ぎ!
楽しいひとときは最高です✨













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by patofsilverbush | 2017-03-10 14:18 | | Trackback | Comments(0)

種まきの前の・・・

3年日記や5年日記を愛用して継続中です。
思ったことを書くというよりは、行動の記録という感じ。
育児記録にもなればいいかな、くらいの気持ちで書いているので
息子ネタも多いのですが、
実のところ、3年や5年ごとに日記帳が変わってしまえば、
過去の記事を見る事はほぼありません。
今使っているのは5年日記の3年目なので、書くときに
「去年は(おととしは)こんなことしてたんだ。こんなことがあったんだ」
と見返すことはあるけれど、育児日記の観点より、
季節の花の開花情報を読み返すときが一番おもしろいかな。
去年の今頃は、もうこの花が咲いていたんだ、今年は寒いんだね、とか、
スズランが去年よりたくさん咲いたんだ♡、とか。
小さいけれど、大切な季節の記録。


自分の行動パターンもなんとなくわかって、ワードローブを整理したくなるなど
毎年同じような時期にしているのは、我ながらおかしく思ったりします。
無意識だけれど、
種をまく時期、花が咲く時期、収穫の刈り入れの時期や休眠中の時期などが、
心の中にあるのかもしれません。
春先のこの時期に、服の整理をしていることがとても多い。
春だからウキウキするのか。
新しくなろうと心が思うのか。
単純に、ウールの厚ぼったいセーターやコートに飽きて、身軽くなりたいからかもしれない。


なんとなく「種まき」の印象のある(わたしだけかな?)ワードローブの整理なのですが、
今年は、
引き出しを見れば見るほど、なんだかしっくりこない感じが強いのです。
ミニマリストではないので極限までそぎ落としたい、と思っているわけでは必ずしもない、のですが、
なんだか、処分しても、まだまだ物が多いように感じる。
引き出しに入っているのは「ときめく」ものばかりだというのに。


自分の中にある「そぎ落としたいもの」が、見えきっていないんだなぁと思う。
自分の中にある軸が、自分自身でしっかり感じ取れない感じ。
種まきをしようと荒れ地を耕したら、なんだかわからない草の根っこが
いっぱい地中からでてきた!きりがない!
と途方に暮れているような。
ああ、種まきじゃなくて、土地づくりなんだ・・・。と初めて思いました。
去年や、その前にも。
整理していたものは、表面上の雑草を取り除いていただけ。
まだ種がまける状態じゃぁないのね!


種をまいて、花が咲いて、収穫をして、また新しい種をまいて・・・というサイクルを
繰り返していたような気になっていたけれど、
本当の種はまだまけていないし、今になってようやく、地面を掘り返しているらしい。


日記を読んで直接そう思ったわけではないのだけれど、
このところの、なんとなくモヤモヤしていたわけに
ふっといきついた気がしました。

途方にはくれているけれど、がっかりはしていない。
ちょっと前に進んだからね。
目の前に広がる荒れ地は、森もあって小川もある。素敵な土地だから、
片隅にちょっとした畑を作れるようにと思います。







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by patofsilverbush | 2017-03-08 12:55 | | Trackback | Comments(0)

日々のあれこれを綴ります


by anne
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