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妖精の贈り物

小さなころ持っていた、子ども用の 大きなサイズの童話集。
アンデルセンやグリムはもちろん、日本の昔話や、はては日本神話まで、
ヴァラエティ豊かなラインナップ。
息子にも読んで聞かせましたが、

中でも群を抜いて、乙女心をくすぐったのは、
『ペロー童話集』
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「長靴をはいた猫」や「妖精の贈り物」など、いくつかのお話が入っており、
「シンデレラ」の名前で有名ですが、
原作なら「サンドリヨン」というんだな~と覚えたのも、この本でした。

継母にメイド扱いされ、仕事が終わると、暖炉の灰の中に座って暖をとる娘に、
上の継姉がつけたあだなが 「キュサンドロン(おしり灰だらけさん)」。
それほど口の悪くない 下の継姉が呼んだあだ名が 「サンドリヨン(灰だらけさん)」。
レペットのバレエシューズにもありますね、サンドリヨンと名付けられた一足が。



なにしろ漫画風でも、可愛らしい 子どもの絵本風でもない、
この大人っぽくて、素敵な挿絵が大好きで、
いかにも「お姫様!」というサンドリヨンのドレスを うっとりと眺めていたものです。
男の子だけど、息子もこの本の「サンドリヨン」、大好きです。


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「妖精の贈り物」も、大好きなお話でした。
やはり意地悪な継母・継姉が登場する、典型的なおとぎ話です。


継母に命じられ、泉に水汲みに行った娘が、
汚い恰好のおばあさんに、水を飲ませてほしいと頼まれます。
心優しい娘が水を飲ませてあげると、
おばあさんは たちまち美しい妖精に早変わり。
「親切にしてくれたご褒美に、
おまえがしゃべるたびに、口から花や宝石がとびだすようにしてあげよう」
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帰宅した娘がしゃべるたびに 花や宝石がとびだすありさまに、
継母は大急ぎで 継姉を泉に水汲みにやります。
現れたのは、立派な服装をした貴婦人。
同じように水を飲ませてほしいと頼みますが、
怠け者の姉娘は 「自分で汲んで、飲んだらいいでしょう」と断ります。
すると貴夫人は妖精に姿を変え、
「不親切なおまえの口からは、カエルやヘビがとびだすようにしてあげよう」




心優しく、親切で、
自分にできることを、心をこめて一生懸命していると
誰かが見ていてくれて、ご褒美を下さいますよ。



というお話だと思っていたけれど、
それだけじゃなくて、


自分の話す言葉が、美しい花や宝石であるように、
心がけなくてはいけないなぁ、と、最近思うようになりました。


単純に、言葉づかいが美しい、ということも、もちろんあります。
使う言葉が優しく、あたたかく、やわらかなものでありたい、ということも あります。
言葉自体はきついようでも、その奥には、相手を大切に思う気持ちを持っていたい、
ということも。


いろんな意味で、自分の言葉が、花や宝石であるように、
心がけたいなぁ、と。




「心に美しい考えしかなければ、
思ったことをすぐに口に出しても、誰も傷ついたりしない」と、
モンゴメリの小説のヒロインの誰かが言っていたっけ。
(アンだったかな?ストーリーガールだったかな?)

実際はなかなかそうはいかなくて、
意地悪いことや、不平・不満や、愚痴や文句で、
心がいっぱいになってしまう瞬間もあるのだけれど。


「いいものを入れた蔵から、いいものを取り出す」
という聖句があるけれど、
少なくとも、自分の口から出る言葉は、
いい心で 使いたいなぁ と、日々の自分の言葉を反省する今日この頃です。



おとぎ話におきまりのラストシーンは、
もちろん、王子様との結婚なのですが、
このドレス・・・というか、髪に飾った大きな花。
ウェディングドレスの雑誌などを うっとり眺めていると、
こんな感じのドレスに目がいくのは、
この絵のイメージなんだな!というのも、最近 気がついたことです(笑)。


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by patofsilverbush | 2015-09-04 11:10 | 本・映画 | Trackback | Comments(0)

伝道書

『赤毛のアン』が有名な モンゴメリですが、
他にも いくつもの長編小説と、膨大な数の 短編小説も執筆しています。


作家を目指す少女が主人公、ということで、
「もっとも自伝的」 と評されることも多いのが、
『かわいいエミリー』・『エミリーはのぼる』・『エミリーが求めるもの』
の三部から成る、エミリー・シリーズ。
両親 亡きあと、母方の叔母たちにひきとられたエミリーは、
叔母の無理解や 厳しさにあい、葛藤しながらも、
作家への道をひたむきに歩みます。


生まれつき、自然の美に対して敏感で、繊細な心を持つエミリーは、
ふとした瞬間 垣間見える、
その美しさを表現する「言葉」を、常に探し求めます。
ベール一枚へだてた向こうに広がる、美しい世界。
一瞬、ベールがあがった時にだけ、ちらりと見ることをゆるされる、
その瞬間のときめきを、
エミリーは「ひらめき」と表現します(村岡花子・訳)。
「ひらめき」が訪れた瞬間に見える、あの世界を、表現する言葉。


ただ単純に、世界がどう見えるか、
どんなふうに花が咲き、どんなふうに日が輝き、
どんなふうに夕日が沈むのかを描写するだけではなく、
エミリーは その風景の真髄を捕えようとするのです。




見つけた!と思っても、次の瞬間には、
まったく表現しきれていないと悟る・・・


エミリーが捕えようとしているのは、
神さまの世界 ではないかと思うのです。
キリスト教で言うところの、「御国」ですね。



何を見て、神を感じるか?ということは、
人によって、まったく違うことです。

わたしは、戸外にいるときに、より神さまを身近に感じますが、
神さまがお創りになった世界の美しさを、目でみて、感じる、
ということで、
自然の中に神を感じる人が、もっとも多いのではないかと思われます。
多くの芸術家や、詩人、作家などが、そうであるように。


人間には入ることをゆるされない、天上の美。
それは単純に「美しい」だけの世界ではありません。


神さまが与えて下さるものの、
その 豊かさ!
慈愛、安心、欠けるものの何一つない平和、静けさ、幸福、思いやり、誠実さ・・・
ありとあらゆる善きもの、美しいものを与えて下さる、その惜しみのなさ!
その、
満ち足りた世界、
神さまの み心の真髄を、
ダイレクトに 「人間の言葉」 で表現するのは、
非常に難しいことですね。


エミリーが探し、求めているのは、その「言葉」なのです。




一口に 「神を信じます」 と言っても、
どのように、どんな神さまを信じているかは、
これまた人によってまったく異なることです。
同じ神さまの、さまざまな側面を、
自分の目で観られる範囲しか 見えていないのが人間なのですが、

それでも、神さまは、
一人ひとりに ぴったり合った表し方で、
ご自分を表して下さるような気がします。



エミリーが「自伝的な」小説であるならば、
モンゴメリ自身が、
その主の み心を表す言葉を、常に探し求めた作家であった
と言えるかもしれません。

それを読んで、主へと導かれたわたしですので、
主は、もっともわたしに合ったやり方で、
ご自分をわたしに表してくださったのだと思うのです。


「キリスト教の在り方」に懐疑的であったと言われるモンゴメリ。
彼女が常に疑問に思い続けた、「キリスト教」の問題は、今でも常に存在しますが、
モンゴメリは、
「○○教を信じる」という、宗教の枠組みにとらわれず、
ダイレクトに「神さま」を信じた人だったのだと、強く感じます。


そんな彼女の小説は、まさしくわたしにとっては、伝道書なのです。





























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by patofsilverbush | 2015-06-01 13:03 | 本・映画 | Trackback | Comments(0)

信仰、希望、愛

アニメ『赤毛のアン』を見ている息子。

「学校のコンサートで、活人画に出るのよ。
“ 信仰、希望、愛 ” を表現するんだけど、難しいの」
と、マシュウに打ち明けるアン。

活人画は、たとえば聖書の言葉を、
セリフや言葉を使わずに、ポーズだけで 表現する、
まさに「活」きた「人」の描く「画」です。

どんなポーズをとれば、“ 信仰、希望、愛 ” が 表現できるでしょうか?


「え~、難しいね!」という息子が考えた
“ 希望 ” のポーズは、胸にこぶしを当てて(凛々しく?)立つポーズ、
“ 愛 ” は わたしとハグするポーズ(?)。

「“ 信仰 ” は?」
「う~ん・・・わかんない」


しばらくして、
「“ 信仰 ”も、これでいいんじゃない?」と、またハグ。

考えた結果なのか、めんどくさくなったのか 判然としませんが、
まあ、確かに、
そうだな! という気もします。

信じること、愛すること、信じて希望すること。
それはすべて、ぎゅうっと ハグで表現できるかもしれませんね!
神さまが、わたしたちを
ときに そっと、
ときに ぎゅっと、
抱きしめて、共にいてくださるように。


そしてそれは、「どんなふうに表現しようか」などと、
頭で、理屈で 考えるより、
ずっと単純で 素直で 簡単なことなんだと、
子どもといると、よく感じます。











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by patofsilverbush | 2015-03-08 15:00 | 子育て | Trackback | Comments(0)

内側から放たれるもの

文章を書くのは むかしから大好きですが、
それでも、
こんなふうにブログを書くときは、
いつも集中力を要します。

日記とは違い、見て下さる方がいらっしゃる。
個人的、ありきたりな日常なのだけれども、
だからこそ、誰もが体験しうることかもしれなくて、
そんな体験や わたしの個人的な感想を通して、
読んで下さる方が それぞれに何か感じられたらいいなぁ 
と思うのです が、


言葉にしきれないできごとや、
書いてしまうと 誤解を招きそうな感情もあり、
そんな、
水の中に小石を投げいれた時に、水底から 泥や土が湧きたってくるような日々は、
自分の心が澄んでくるまで
なにも表現できないこともあります。


澄んだからって、表現できるわけでもないけれど。


もちろん、ネガティブなことばかりではなく、
あまりにも微妙な 神さまのなさりかたに 感激して、
でも、書いてしまうと きわめてバカバカしいように感じるような、
そんな素晴らしい体験も、
なかなか表現はできないものです。


『赤毛のアン』におりおり登場する 聖書の言葉を
アンを読みついでに ちょっと解説すると、
今まで
「・・・・・ふーん・・・」
というような、
自分には関係ないと思っていた言葉が、
急に 生き生きした、自分の日常への語りかけなのだと 気づくこともあって、

「“ 聖書の この言葉は、こういう意味ですよ~ ” と、
全部 解説してくれる本が あるといいのにね~!」
と、おっしゃった方がいらっしゃいました。

本当にね!
なんて思いましたが、


聖書を読んでいるうちに、

ああ、これって、ひとりひとりに違うことを話される、
神さまの 微妙ななさりかただなぁ・・・と、あらためて思いました。


日常の中で、聖句が はっと心にひらめくことがあり、
長らく意味のわからなかった個所に、はっとスポットが当たったり、
意味を理解できたように 思う瞬間があります。
「あの言葉って、こういう意味だったんだ!」


でもそれは、
その時・その瞬間の、神さまからのメッセージであって、

また別の時には、
同じ個所を、また違った風に感じることもあります。
それも、
その時・その瞬間の、神さまからのメッセージ。

同じ言葉が、いつも同じ意味だとはとは限らない。
正解は一つじゃないし、
一つじゃない、ということを受け入れて、許容できるものが少しずつ ふえてゆく。


そんなふうに、
なにか体験し、なにか感じるたびに、少しずつ理解が深まってゆく。


聖書のことだけではなく、
日常って、その繰り返しではないでしょうか。


誰かが解釈してくれることは、その人の解釈でしかありえない。
同じ個所を読んでも、人によってまったく違うことを考えることもありますし、
相手の解釈が 全然自分と違う!と受け入れられない時もある。

でも、それはそれで、
その人の理解の度合いなのだと思います。
それでいいのです。
神さまは、そんなにおしつけがましい方ではないからです。


だれかが表現してくれることを、そのまま受け止めるのではなく、
聖書に、文章として表現されている、言葉の奥に、
イエスさまや神さまの み心を感じ取ろうとすることこそが、
神さまと 自分との関係を、深めてゆくということなのでしょう。


神さまの言葉を、そのままに受け取ることができれば 一番いいのだけれどね。


だから、心の門を、ひらいていなさい。
と、おっしゃっているのですもんね。


ちなみにこれ、息子の今月のテーマらしく、
幼稚園でいただいた、子供用のクリスマスの祈りの本から書き写して、
コルクボードにとめています。
別に 何を実践するわけじゃないのだけれど、お祈りの本や聖書は、気持が落ち着くらしく、
時々 書き写したくなる時が あるようです。
おもしろい(息子が)。


表面から見えるものに、自分の心を 限定してしまわないように。

内側は光っていて、
まぶしすぎて 真っ白にしか見えないのだけれど、
いつも目を凝らして
耳を澄ませていられたら 

何かあると、
心の薄暗がりの中から 思ったりします。



門よ とびらを ひらきなさい
神さまが いらっしゃって
ここから おはいりになるからです
世界の王まさ みんなの心の王さま 神さまが
ここをとおって おはいりになるからです
門よ とびらを ひらきなさい
おおきく いりぐちを あけなさい
         詩篇 24より


  
 




















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by patofsilverbush | 2015-02-10 10:50 | | Trackback | Comments(4)

日々のあれこれを綴ります


by anne
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